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浅利 勝頼(あさり かつより、生年不明 - 天正10年5月17日(1582年6月7日))は、出羽国比内郡の国人浅利氏当主。父は浅利則頼。兄に頼治、則祐、姉妹に松の方(浅利牛欄室)。子に頼平、頼広。 浅利氏は甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利)に拠った一族で、勝頼の系統はその後裔のうち比内浅利氏と呼ばれる一族である。 兄・則祐との確執から、永禄5年(1562年)に宿敵である檜山安東氏と通じて裏切り、兄を自害に追い込んだ。自身は、兄の跡を継いで当主として収まった。それまでの支城に加え、新たに大館城を築き、北の守りとして城下に独鈷衆を配置した町割りを行った。 天正10年(1582年)、檜山安東氏に招かれた宴席で暗殺され、比内浅利氏は瓦解する。 category:戦国武将 category:出羽国の人物 category:暗殺された人物 category:生年不明 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅利勝頼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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