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浅岡 信夫(あさおか のぶお、明治32年(1899年)12月15日 - (昭和43年)1968年11月12日)は、日本の俳優、政治家である。第二次世界大戦前、サイレント映画時代の日活スター俳優であり、映画監督、プロデュースも務めた。戦後、参議院議員も務めた。身長177.3cm、体重93Kg〔『日本の選択(4) プロパガンダ映画のたどった道』、NHK取材班編集、角川書店、1995年、p.126-.175〕。身長180cm、体重90Kg〔『広島スポーツ100年』、中国新聞社、1979年、p.72.〕。 == 来歴 == 1899年(明治32年)12月15日、広島県広島市大手町(現在の広島市中区大手町)のパン屋「むさし屋」の長男に生まれた〔〔『新潮日本人名辞典』、新潮社、1991年、p.29.〕〔『スポーツ人國記』、ポプラ社、1934年、p.79.〕。 泰明小学校に通っていたという証言がある。1909年より近くの通信社で働いていた根岸寛一が小さかった浅岡を相撲で転がしたとか、根岸と同僚の古野伊之助にうるさくしすぎて事務所の金庫へ閉じ込められたという文献がある〔出典は岩崎昶『根岸寛一』(根岸寛一伝刊行会、1969年、復刊・大空社、1998年 ISBN 4756805116)と『古野伊之助』古野伊之助伝記編集委員会 1970年〕。中学は旧制・暁星中学校(現在の暁星高等学校)とするものと〔、旧制・広島一中(現・広島国泰寺高校)に在籍したと書かれた文献がある〔もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』 1920年(大正9年)、広島市の広島高等師範学校で行われたアントワープオリンピックの中国予選に、投てきの広島代表として出場〔『広島スポーツ100年』、p.63.71.72〕。同年、極東選手権のやり投で優勝した〔。1921年(大正11年)のラグビー早慶戦創設にも関与しているという〔校内 〕。 1925年(大正14年)、大学卒業後、相撲部出身のスポーツマンとして見込まれ、日活大将軍撮影所に入社、日活新人スターとして売り出された。19本の映画に出演、岡田嘉子と共演して人気を集め〔一時代を築いた。 1927年(昭和2年)、人気小説『海底軍艦』シリーズを映画化した『東洋武侠団』(内田吐夢監督)で浅岡と広瀬恒美は「陸の王者・浅岡信夫」「海の王者・広瀬恒美」としてダブル主演し、映画は大ヒットした。 1928年(昭和3年)、広瀬を主演に2作を監督〔#外部リンク、「浅岡信夫」、日本映画データベース、2009年11月9日閲覧。〕。 1930年(昭和5年)、俳優業を引退〔。 1931年(昭和6年)、『映画国策之提唱』を著し、翌1932年(昭和7年)渡米を経て、映画国策確立の行政機関の設置を主張。情報局の幹部、政治家とも交際をもち「映画国策建議案」の成立に牽引〔第5章 「活動写真映画取締規則」と映画国策化 〕、1933年(昭和8年)国会に提出され可決した〔。この法案は、のち館林三喜男らの尽力により1939年(昭和14年)、映画法の制定に繋がっている。森矗昶の弟・岩瀬亮や北一輝の弟・北昤吉と、とりわけ親しく1933年(昭和8年)、北とともに日本国策映画研究所製作を開設〔。 1935年(昭和10年)、多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の創立に参画〔。 1936年(昭和11年)には、日本国策映画研究所製作の映画『国防全線八千粁』をプロデュース、日活が配給して公開している〔。1930年代後半に築地で料理屋を経営〔。 その後、大陸に十年余滞在し1946年(昭和21年)12月、上海から引き揚げ〔。海外同胞引揚の救済運動に尽力〔参議院会議録情報 第002回国会 議院運営委員会 第6号 、質問主意書:参議院ホームページ 〕。 1946年(昭和21年)、プロ野球球団・東京セネタースの身売り話を小西得郎と共に仲介〔関三穂『プロ野球史再発掘4』ベースボール・マガジン社、1987年、p.12-16、70〕〔鈴木明『昭和20年11月23日のプレイボ-ル』光人社、2001年、p.131-132〕。東急社長・五島慶太に野球を薦めたのは強羅ホテル支配人・猿丸元の友人浅岡で、広島一中時代の親友で、東急の専務黒川渉三を通じて五島に会い、話をまとめたという〔。 1947年(昭和22年)、日本自由党から参議院議員選挙に立候補し当選〔、吉田内閣で厚生政務次官を務めた。 1949年(昭和24年)、広島平和記念都市建設法可決。広島の戦後復興の礎になったこの法案は、浅岡の発言がきっかけで検討が始まったものという〔平成11年第 1回 2月定例会-03月03日-04号 〕。 1950年(昭和25年)、日本初の女子プロ野球創設に関与〔。 1968年(昭和43年)11月12日、脳出血のため死去した〔〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.126。〕。満68歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅岡信夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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