|
浅岡重輝(あさおか しげあき、1942年1月1日 - )は、東京都出身の元レーシングドライバー、モータージャーナリスト。 ==来歴・人物== 港区白金出身。小学校の後輩に同じくレーサーの福澤幸雄がおり、当時から親しかったという。子どものころからクルマ好きで、16歳で免許を取得(当時1,500cc以下の小型車は16歳で免許が取れた)。最初の愛車はイギリス車のオースチンA50。 1958年に、16歳で日本スポーツカークラブ(スポーツカークラブオブジャパン、SCCJ)に入会。ジムカーナやヒルクライムなどのモータースポーツに出場する〔この当時、鈴鹿サーキット(日本初の本格的レース場)はまだ開業しておらず、本格的なレースは開催されていなかった。〕。 1963年に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリに、ヒルマン・ミンクス(いすゞがノックダウン生産していた)で出場し、C-5クラス(1,300〜1,600ccのツーリングカー)で5位〔浅岡は、イギリス車のヒルマンなら同クラスのライバルであるトヨタ・コロナには楽勝できると考えていたが、コロナに規則違反と思われる改造が加えられ上位を独占されたという。〕。 1964年にいすゞのワークスドライバー(いすゞ宣伝部の社員)になる。以後はいすゞのエース格ドライバーと目され、レース出場に加え、マシン開発などの業務にも携わる。1969年の鈴鹿12時間耐久レース優勝(ベレット1600GTX、ペアドライバーは形山寛次)など、数々の好成績を挙げている。またいすゞ・R6などのプロトタイプレーシングカーの開発ドライバーとしても活躍した。 いすゞは1973年いっぱいでレース活動を終了。浅岡はF2000などのフォーミュラカーレースや富士グランチャンピオンレースなどのスポーツカーレースで、1975年までドライバーとして活動し現役を引退。引退後はいすゞ関係の一般企業に勤務した後、モータージャーナリストとしての活動を開始。レース引退後もSCCJやMGカークラブ所属のアマチュア(クラブマン)ドライバーとして、各種イベントに参加。ラフェスタ・ミッレミリアの競技長なども務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅岡重輝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|