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浅沼 誉夫(あさぬま よしお、1891年1月5日 - 1944年1月24日)は、日本のプロ野球監督。 == 来歴・人物 == 早稲田大学商科に在籍し、野球部第9代主将を務める。東京六大学野球連盟の初代首位打者。 その後、東京六大学野球リーグ戦で審判を務める。八十川ボーク事件(1931年(昭和6年)5月18日)で、騒動の発端となるボーク判定を行った試合の球審を務めたのが浅沼であった〔昭和ラプソディ(昭和6年4~6月)慶明戦で明大の狼藉 誰か昭和を想わざる参照〕。 1934年(昭和9年)の読売新聞社主催による日米野球、アメリカ遠征では三宅大輔とともに監督として出場。ヴィクトル・スタルヒンや沢村栄治など草創期の名選手が多数参加しており、帰国後は全日本代表の選手を中心とした大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ)を結成。浅沼は総監督(現在のGMに近い地位)に就任〔「主に選手のしつけを担当した」という(『巨人軍5000勝の記憶』p.11)〕。 1935年(昭和10年)に武者修行として2度目のアメリカ遠征を行い、110試合で75勝34敗1分の好成績を収める。しかし帰国後に行った全国の社会人野球との試合で勝率9割以上の好成績を残すも、藤本定義が監督を務め前川八郎を擁する東京鉄道局に連敗した責任を首脳陣から取らされる形で、三宅は監督を解任された。 三宅の後任として浅沼を総監督から監督に横滑りし、1936年(昭和11年)の2度目のアメリカ遠征時には浅沼自身が指揮を執った。77試合を43勝33敗1分の成績で終えるものの、選手との隔たりから解任される。 解任後は1940年(昭和15年)までフロントに残っていたとされる。 誉夫の長男が中学時代最後の早慶戦を観戦し、およそこの試合唯一となるスコアブックを記録、保存しており、2005年に初めて公開され話題となった〔戦後60年の今、振り返る最後の早慶戦 早稲田大学公式サイト〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅沼誉夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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