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浅田孝 : ウィキペディア日本語版
浅田孝[あさだ たかし]
浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990年12月4日)は、日本都市計画家建築家香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。南極昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国世界デザイン会議香川県五色台開発や坂出人工土地美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。
甥には『構造と力』などの著者で元京都大学経済研究所准教授京都造形芸術大学教授浅田彰がいる。
== 人物 ==
1921年愛媛県松山市に生まれる。父は医師。松山高等学校 (旧制)理科甲類を経て、東京帝国大学工学部に入学。1943年東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、海軍に所属。広島県呉市の基地に見習海軍技術士官として配属される。このころはおもに飛行場施設の建設やダムの修繕計画などを手がけている。海軍技術科士官・設営隊長だった1945年8月、香川県に滞在中、瀬戸内を挟んで対岸の本州広島に原爆が投下される。広島上空にあがった巨大なキノコ雲を見て、直ちに広島へ向かったという。こうして投下直後の爆心地広島で、調査及び救助活動に当たる。
1945年、丹下健三のもとで東京大学大学院特別研究生となり、戦災復興院嘱託として大谷幸夫らとともに戦災復興都市計画に参加。広島などの戦災復興都市計画立案に関わる。また助教授となった丹下に協力して丹下研究室を創設。
以降、丹下の下で参謀として、さまざまなプロジェクトを共にしていく。広島平和記念公園や図書印刷原町工場、旧東京都庁舎ほか、丹下が手掛ける数々の建築に、設計スタッフとして携わる。
1950年、建築雑誌誌上に発表した『建築家とモラル』と題した文章で、芸術を作る作家ではなく本質的な部分に対する深い理解に基づく創造者としての建築家像を記述し提起。
1951年、東京大学大学院特別研究生を修了。
以降、丹下研究室の主任研究員として広島平和記念公園施設、香川県庁舎などの設計監理を担当。1952年、早稲田大学非常勤講師。また、旧厚生省国立公園部・財団法人国立公園協会の嘱託として、国立公園の施設基準策定を担当している。
一方で戦後の都市化、地域開発の設計、実施に力を注ぐ一方、文筆による方法論の提起も活発に行なっていく。1955年、雑誌新建築編集顧問として、「新建築」1955年8月号「原爆下の戦後10年 日本人の建築と建築家」を編集。こうした特集を組んで戦後復興の方向についての世論を呼びおこす。
1956年には、日本建築学会南極特別委員会委員兼設計部会主任として、南極大陸昭和基地を建設オペレーション計画、携行建物のシステム設計、製作監理に携わる。1959年から、地域開発・環境問題の調査研究のため、民間の都市コンサルタントとして、環境開発センターを新宿に設立。大規模な地域開発、施設計画等を行なう。
1961年には株式会社化。また、旧自治省住居表示制度審議会委員を務める。
1960年、世界デザイン会議運営財団を発足させ、日本で行われる世界デザイン会議の事務局長を引き受ける。1961年から、「こどもの国建設推進委員会」委員となり、横浜市町田市にまたがる「こどもの国」のマスタープラン作成などを手がける。以後は総括設計者としてその開設に尽力。1962年には柳宗理らと、高速道路・高速自動車道の道路標識や住居表示等のサインシステムのデザイニングに携わる。
1962年、香川県の五色台開発計画以降、香川県の香川県観光計画・総合開発計画について、終生取り組んでいる。
一方で香川県知事の依頼による、子供の野外活動推進のための開発保全全体計画を策定。
1963年に、環境開発センターを新宿から銀座に移す。この時期センターにはこのあと伊豆大島元町の復興地域計画を手掛ける早稲田大学吉阪研究室のメンバーが出入りしていた。浅田は大学には戻らず、研究ではなくプロフェッショナルの実務家として都市計画に携わっていく。計画策定では国土計画的な視点でのものを、特に生まれ故郷四国関連を多く手がける。田村明とは香川の観光開発計画の仕事で合流、愛媛の観光計画では「愛・地球博」の総合プロデューサーを努めたデザイナーの泉真也を伴う。泉は大阪の万博以降、日本国内で行われる万国博覧会全てに参加している。
この年、後に衆議院議員日本社会党委員長になる飛鳥田一雄が横浜市長になり、市長のブレーンだった鳴海正泰を通して横浜市から浅田率いる環境開発センターに、横浜の都市づくりの計画策定などが依頼される。市政への市民参加を薦める横浜の新しい都市づくりの中で、横浜の将来計画に関する基礎調査報告書(1964年12月5日)と「横浜の都市づくり~市民がつくる横浜の未来」(1965年10月1日)により、浅田の理念は具体化される。浅田は、米軍に長く接収されて手づかずであった横浜都心部の強化策や三菱ドックヤード移転、地下鉄建設など、成果が目に見える「プロジェクト型事業」を進めることを提案。このあと部下の田村明が横浜市に奉職、今日広く知られる横浜市アーバンデザインのルーツとなる。
他方、茨城県からの依頼で、1963年、鹿島工業都市圏環境整備計画を立案。鹿島の掘り込み港湾と併せコンビナートをつくるという計画を進めるが、委託範囲を超えて地域イメージを提案。鹿島臨海工業地帯東海村原子力施設地区一帯、筑波研究学園都市の3つでゴールデントライアングルとし、1つの地域だけでなく3つ連携し1つの高度機能地帯を形成させそれを成田空港と結びつけることにより、世界と提携できる形式構造の形成を提案している。
大阪府の依頼から1964年、『近畿万国博覧会構想に関する研究報告』を受託し、地域開発~主要観光拠点の整備、跡地利用~近畿圏における学術文化の中心を提示。1965年にも大阪府企業局の依頼で『堺・泉北臨海工業地帯環境整備に関する基本調査・研究』を実施し、報告では総論と環境整備の11項目、計画策定体制、付属資料の時代的意義の他、「ニューヨーク港とその水際地域の運営」と「Stanford Industrial Park」(シリコンバレー)を事例として紹介している。
1964年1970年に開催が迫る日本万国博覧会の初期マスタープランを川添登らと手がける。同年、『都市問題』に「都市と開発のヒューマン・リニューアル」を発表し都市建設のあり方を提言するなど、時代の変化に応じた有効で豊かな都市計画への指針を示し続ける。
1965年、建築設計した「五色台山の家」が故郷香川県高松市に竣工する。
1967年東京都知事選挙前において、美濃部亮吉(都知事)のもとで政策「広場と青空の東京構想」作成。一方で対立候補は東京の抜本的改造を目指し、4兆円規模プロジェクト型ビジョンの施策「東京緊急開発行動五ヶ年計画」を取りまとめる。これを手がけたのは浅田の薫陶を直接受けた泉真也で、5年限定の4兆円と、15年に渡る対策費としての13兆円とでは単純比較はできないが、泉らは浅田の13兆円という提示におどろく。
さらに、大高正人と香川県坂出市のスラムクリアランス事業に参画。「坂出人工土地」を生み出し、1967年、日本都市計画学会石川賞を受賞した。
1968年鹿島出版会から『環境開発論』を出版。
1970年には「こどもの国」園内に建設された皇太子殿下御成婚記念館を実施設計する。
1970年からは、五色台青峰地区整備基本構想、五色台児童安全能力開発センター構想、
1970年から1979年にかけての、瀬戸大橋関連の地域開発計画、
1971年、新高松空港周辺地域開発基本計画・施設配置計画、香川県観光レクリエーション地帯整備構想、1973年、四国横断自動車道のルート決定調査、といった四国地方に関する地域計画に取り組む。
1972年、旧通産省・沖縄海洋博覧会「事業企画」「会場計画」委員としてその開催に尽力。
1982年に著書『天・地・人の諸相をたずねて』、
1985年に『地域社会の豊かさを求めて』(共著、総合労働研究所)を刊行。
1987年から1990年に死去するまで、トヨタ財団の専務理事を努め、環境問題に関して積極的な提言を行った。1990年に逝去。
川添登は著書『建築家・人と作品』(上)(1968年)で「建てない建築家、書かない評論家、教えない大学の教授」と評した。哲学する都市計画家、などとも呼ばれた。また川添によると、何か思いつくと昼夜かまわず「集合」の電話が自分のところに来たという。この号令をかけて集まってくる常連たちが、後のメタボリズムグループと発展していった。
田村明によれば、浅田は報告書のサイズはB版が主流だった60年代から70年代の当時にあって、A4版サイズでレポートを作成させ、表紙には「地域開発のエキスパート 株式会社環境開発センター」と記させたという。自らエキスパ―ト」だと名乗ることについて、浅田は「そのくらいの気構えでなくては駄目なのだ」といったという。また、「ひとつのプロジェクトをやるには、300枚ほどのエスキスが必要」、「コンサルタントのレポートは薄いほど価値がある。1枚半か、せいぜい1枚3分の1くらいまでが理想。これなら1億円採れる。ただ分厚いレポートは誰も読みやしない。紙と印刷代だけ」と語った。事務所には昼過ぎにきて、しゃべり出すと没入し、ときには夜通しになったというが、はなしは天下国家から地球規模のスケールのものまで、時には建築のディテールの細かいはなしまで及んだという。これは東大時代についても黒川紀章が同じように指摘している。つねに地球儀を掲げて宇宙論を語り、世界を論じる、その頃は呑んでは朝まで議論し、銀座にある泰明小学校の近くの旅館が溜まり場だったという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浅田孝」の詳細全文を読む



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