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浅羽佐喜太郎 : ウィキペディア日本語版
浅羽佐喜太郎[あさば さきたろう]
浅羽 佐喜太郎(あさば さきたろう、1867年慶応3年3月)〔2人の英雄の物語:日越国交40年を前に/中 短い生涯、浅羽佐喜太郎/静岡 毎日jp、2012年11月3日記事〕 - 1910年明治43年)9月25日)は、日本医師篤志家ベトナムの民族主義運動の指導者だったファン・ボイ・チャウを支援した事で有名である。
== 人物・生涯 ==
1867年(慶応3年3月)、遠江国磐田郡東浅羽村(現在の静岡県袋井市梅山〔)にて生まれた。佐喜太郎の父・義樹は神主だったが、戊辰戦争官軍に加わった事をきっかけに軍人に転向した人物だった。帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)卒業後、神奈川県小田原市国府津町と故郷の東浅羽村にて医院を開業。生来、困っている人を見ると助けずにはいられない性分で、貧しい患者から決して金を取ろうとせず、むしろ金を施した程であったと伝わっている。慈善活動にも熱心で、神奈川県立第二中学校(現・神奈川県立小田原高等学校)や前羽村(神奈川県足柄下郡にあった村。現在の小田原市)の消防団設立に当たって多大な寄付をした他、前羽村や国府津町の小学校校医を務め、前羽村小学校に風琴(オルガン)を贈呈するなど地域発展にも力を尽くした。
1907年(明治40年)、故郷・東浅羽村に帰っていた浅羽は道端で行き倒れになっていた、ベトナムの民主主義運動家だった阮泰抜を助けた。そして阮に対して東京同文書院(後の東亜同文書院大学)への入学手続きや学費まで支払い、金銭的な援助をした。これが同じベトナムの民主主義運動家のファン・ボイ・チャウの耳に入り、2人の交流が始まった。ファンは1905年(明治38年)に来日し、犬養毅の支援を通じて、ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動(ドンズー運動)を興していたが、この頃になると金銭的に苦しくなっていた。浅羽はそんなファンに対し、1,700円もの大金〔参考までに、東浅羽村小学校の校長の月給が当時18円だった。〕を提供してファンを助けた。2人の交流は、日仏協約の締結によるベトナム人留学生の国外退去命令が出された1909年(明治42年)3月まで続いた。ファンの退去時にも浅羽は歓待し、2人で互いに再開を約束し、国外退去命令を推進した大隈重信や犬養毅を酷評したと言われている。
浅羽は病弱であり、当時不治の病だった結核を長年患っていた(このため医科大学卒業後、ドイツ留学を希望していたが断念せざるを得なかった)。加えて1910年(明治43年)8月に東浅羽村を大洪水が襲い、被災者への心労が加わった事も病状を悪化させた〔死後の1912年(明治45年)に、佐喜太郎の遺族が被災者に対して義捐金を送っている。〕。洪水の翌月(ファンとの別れから1年半後)の1910年9月25日、東浅羽村の自宅で死去。43歳没。
中国で浅羽の訃報を知ったファンは、1917年大正6年)5月に偽名を使って日本に密入国した。翌1918年(大正7年)に3度目の訪日をし、東浅羽村の村長の金銭的援助もあって、浅羽への記念碑を建立した。碑は高さ2.7m、幅0.87mの大掛かりな物で、以下の文言(和訳箇所あり)が刻まれた。

''われらは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。
 豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。 
 大正七年三月 越南光復会同人''

日越国交樹立40周年となった2013年平成25年)に放送された日越合作ドラマ『The Partner 〜愛しき百年の友へ〜』(明治編)で浅羽とのファンの交流が描かれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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