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浅草オペラ(あさくさオペラ、1917年 - 1923年)は、関東大震災までの大正年間、作曲家の佐々紅華や興行師の根岸吉之助、ダンサーの高木徳子らが中心となり東京の浅草で上演され、一大ブームを起こしたオペラ、オペレッタとそのムーヴメントである。第一次世界大戦後の好況を背景に、日本国内におけるオペラ、および西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たした。 == 略歴・概要 == === 暁光と隆盛 === 1916年(大正5年)、アメリカ留学から帰ってきた高木徳子が「世界的バラエチー一座」を旗揚げ、同年5月27日から10日間にわたり浅草公園六区(浅草寺西側の興行街)の活動写真館「キネマ倶楽部」で昼夜連続公演を行う。アメリカ流のミュージカルであったが、この公演の成功をもって「浅草オペラ」の嚆矢とする。 いっぽう、1911年(明治44年)に始まる麹町区丸の内の帝国劇場(帝劇、現在の千代田区丸の内)を舞台にしたオペラが、1916年5月の帝劇洋劇部の解散により行き場を失くす。高木は、7月に一座を解散し、9月に伊庭孝と組み、弟子たちおよび帝劇洋楽部のメンバーの一部とともに新劇団「歌舞劇協会」を結成、川上貞奴の一座との合同公演を甲府、暮れには赤坂区溜池(現在の港区赤坂1-2丁目あたり)で行い、翌1917年(大正6年)1月22日、浅草六区の根岸興行部「常磐座」でオペラ『女軍出征』を上演、大ヒットする。ここから「浅草オペラの時代」が始まるとされる。 この間、帝劇で指導にあたっていたイタリア人演劇家ローシーが、赤坂区(現在の港区赤坂)にオペラ劇場「ローヤル館」を創設する。田谷力三はここに参加している。帝劇洋楽部解散後5か月後の1916年10月から興行を開始するが、原信子は翌年11月に去り、興行的な問題や内部の路線対立から、1918年(大正7年)2月、1年あまりで解散に追い込まれてしまう。 東京蓄音器(のちの日本コロムビア)の音楽製作者・佐々紅華が立ち上がり、「東京歌劇座」を結成、1917年10月23日、浅草「日本館」を常設館としてオペラの公演を開始する。佐々は作詞・作曲、歌い手・ダンサーとしては、石井漠、杉寛、沢モリノといったメンバー。小杉義男もここにいた。翌1918年2月には、解散した「ローヤル館」の残党、清水金太郎・清水静子の夫妻、ピアニスト澤田柳吉を迎え、同年3月末まで公演した。オッフェンバック作の『天国と地獄』は好評を博した。4月以降の「日本館」での公演は「アサヒ歌劇団」が行った。アサヒには新国劇を辞めた戸山英二郎(のちの藤原義江)がいた。 また同年3月、原が原信子歌劇団を結成、ローヤル出身の田谷、堀田金星はこれに参加、浅草「観音劇場」でアイヒベルク作のオペレッタ『アルカンタラの医者』、6月にはリヒャルト・シュトラウス作の『サロメ』を公演。田谷は同年秋に突然退団、佐々の「東京歌劇座」に参加、さらに清水夫妻、藤原義江とともに「七声歌劇団」を結成、翌1919年(大正8年)2月には根岸興行部の「金龍館」で『アルカンタラの医者』を公演する。翌月原は一座を解散、「引退宣言」をして渡米する。 同年5月には松竹が「浅草オペラ」に参入、「新星歌舞劇団」を結成、伊庭、岸田辰彌、高田雅夫、高田せい子、藤原義江らローヤル出身者を引き抜く。「夷谷座」で伊庭の新作『無頼漢、戦争の始終』を公演。翌月には岸田は退団して宝塚歌劇団入りする。同年10月、高木徳子が28歳で死去。翌1920年(大正9年)3月、藤原がイタリアへ留学へ立つ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅草オペラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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