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浅見國一 : ウィキペディア日本語版
浅見国一[あさみ くにいち]

浅見 国一(あさみ くにいち、1921年12月2日 - 2012年5月28日)は日本中央競馬会に所属した騎手調教師馬主岐阜県出身。騎手として2度の菊花賞優勝など八大競走3勝、関西リーディングジョッキーも2度獲得。調教師に転じた後もヤマピットヤマニンパラダイスなどを育てた。日本中央競馬会所属の調教師浅見秀一は実子。
== 経歴 ==
1935年、京都相羽仙一厩舎に入門して騎手見習いとなり、1942年に正騎手となった。同期には境勝太郎がいる。しかし直後に勃発した太平洋戦争により徴兵され陸軍に入隊、終戦までをビルマで過ごした。復員後厩舎に戻り、1946年の競馬再開と共に再び騎手として活動を始めると、1950年にハイレコードで菊花賞に優勝し八大競走を初制覇。1958年にコマヒカリで再び菊花賞を制し、1960年、1961年には2年連続で関西リーディングジョッキーを獲得した。1961年はヤマニンモアー天皇賞・春に勝利している。
師匠であった相羽仙一の死去によって1964年に騎手を引退し調教師に転向すると、開業初年度からヤマニンルビーで京阪杯を制し重賞を初優勝。4年目の1967年にはヤマピットで優駿牝馬(オークス)を制し八大競走に勝利。その後もオークス優勝馬ケイキロクや、平地障害双方で活躍したメジロワース、「天才少女」と呼ばれたヤマニンパラダイスなど活躍馬を送り出し続けた。1997年2月に定年により調教師引退。以後は競馬評論家を務めた。2008年には調教師出身者として初めて日本中央競馬会の馬主資格を交付され、86歳にして馬主となった〔スポニチアネックス 2008年8月8日配信「浅見国一氏がJRA初の調教師出身の馬主に」 2008-08-08閲覧〕〔過去、同じ元JRA調教師であった小林稔は調教師定年後、地方競馬の馬主資格を取得しており兵庫県競馬組合に数頭競走馬を所有していた。また、浅見の騎手時代のライバルでもあった清田十一も、調教師引退後に地方競馬の馬主資格を取得し、1992年中山競馬場で行われた第38回オールカマーにショウモンライフクを出走させた。〕。
2012年5月28日、病気のために死去〔訃報:浅見国一さん90歳=元日本中央競馬会騎手、調教師 毎日新聞 2012年5月29日閲覧〕。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浅見国一」の詳細全文を読む



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