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浅野 和三郎(あさの わさぶろう、1874年(明治7年)8月 - 1937年(昭和12年)2月3日)は、日本の心霊主義運動の父。茨城県出身。筆名は浅野 馮虚(あさの ひょうきょ)、憑虚 とも。 == 生涯 == 茨城県の利根川下流のほとり、源清田村(現、稲敷郡河内町)に代々医を生業とする浅野家の、父元斎(げんさい)(婿入り)と母かんの三男として生まれる〔『神の罠―浅野和三郎、近代知性の悲劇』p11〕。 1896年(明治29年)、東京帝国大学に入学、時を同じく小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が英文学担当教師として赴任し、教えを受ける。在学中に機関誌『帝国文学』に処女作「吹雪」を発表。浅野馮虚の筆名で、その後短編小説等を続々発表し文才を発揮。さらに、英文学科に在籍しながら、英米文学の翻訳にも手を広げ、アーヴィングの『スケッチブック』、ディケンズの『クリスマスカロル』、エドワーズの『奇々怪々』を出版した。このような経歴が、心霊研究への下地となっている〔『永遠の大道』復刻版〕。 1899年(明治32年)に東京帝国大学英文学科を卒業。海軍に請われて、横須賀にある海軍機関学校の英語教官に赴任する。機関学校の同僚スティーブンソンは神智学会員であった。 1915年(大正4年)の春、三男の三郎が原因不明の熱病になり、多数の医者に見せても回復せず半年を過ぎていたが、三峰山という女行者の言葉通りに快癒した事から、心霊研究に傾倒し〔『出廬』より〕、1916年(大正5年)海軍機関学校を退官し、当時もっとも実践的な心霊研究をしていた大本に入信。教団内で有力な信者となり、論客として活躍するも、1921年(大正10年)の第一次大本事件による大弾圧の後は教団を離れ、1923年(大正12年)3月、「心霊科学研究会」を創設。伴に大本を離れた人物として宗教右派に属する政治的新興宗教生長の家創始者谷口雅春が居る〔出典:『生命の實相』第19巻、20巻〕。 1928年(昭和3年)、ロンドンで開かれた第三回国際スピリチュアリスト会議(世界神霊大会)に出席し、グロートリアン・ホールにて「近代日本における神霊主義」の演題を英語で講演する。さらにロンドンで霊媒や降霊会を訪ね、パリ、ボストン等を歴訪し、心霊関連の文献を多数持ち帰る。この実績をもとに、日本国内での心霊主義(スピリチュアリズム)の啓蒙活動によって、1929年(昭和4年)5月に名古屋に「中京心霊協会」が、同年7月に大阪に「大阪心霊科学協会」が、そして12月に東京に「東京心霊科学協会」が相次いで設立されて心霊研究の実行機関が各地に設置された〔機関誌「心霊と人生」昭和5年1月号より〕。「東京心霊科学協会」では、翌1930年(昭和5年)1月15日に設立記念の新年総会を開催して、1月17日に新事務所開きを行って、活動を展開し始めた〔「心霊と人生」昭和5年1月号、3月号より〕。 妻の多慶子は三郎の病気が治った翌年から、霊的な能力を見せ始め、1929年(昭和4年)、次男の新樹の死をきっかけに霊言(トランス・トーク)を行うようになり、『新樹の通信』、『小桜姫物語』(ともに霊界見聞録等の内容)を収録し出版した。 1936年(昭和11年)末、『小桜姫物語』の原稿をまとめ上げ出版の準備を終えた後、1937年(昭和12年)2月1日急性肺炎を発症。2月3日に急死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅野和三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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