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浅野 哲也(あさの てつや、1967年2月23日 - )は茨城県鹿島郡鉾田町(現鉾田市)出身の元サッカー選手、サッカー解説者・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)、ディフェンダー(DF)。 宝塚歌劇団男役の礼真琴は実子(次女)〔 毎日jp (2009年3月2日)〕。 == 来歴 == ===現役時代=== 1985年、茨城県立鉾田第一高等学校を卒業しトヨタ自動車に就職。当初は社内の同好会であるトヨタ蹴球団に所属していたがここでのプレーが認められ、1987年に社内で紹介され日本サッカーリーグのトヨタ自動車サッカー部に加入したという異色の経歴の持ち主である。1991年には横山兼三監督時代の日本代表にも選出された。 1993年にはトヨタ自動車サッカー部を母体として発足した名古屋グランパスエイトに所属し、Jリーグに出場。途中、1994年に導入されたレンタル移籍制度によって同年途中から浦和レッドダイヤモンズに移籍したが、翌1995年名古屋に復帰し、1999年まで在籍した。特に名古屋がアーセン・ベンゲル監督を招いた時期には主力として重用され活躍した。またハンス・オフトおよびパウロ・ロベルト・ファルカンによっても、日本代表に選出された。 2000年、J1に昇格したばかりのFC東京に移籍〔 名古屋グランパスエイト (1999年12月4日)〕。展開力を評価され 開幕前には何度か主力組に配されたものの、大熊清監督からは「まだこのチームには、1点を先行された時に浅野のフィード力を使って2点を取り返す力が無い」という判断を下され 先発出場は限られた。しかし、Jリーグ経験の長いベテランとしてプロとしての在り方を示し、選手会を主導してクラブに働きかけるなど、浅野の存在は若いチームにとって非常に大きなものだった。 2001年、出場機会を求めてJ2の川崎フロンターレに移籍するが〔 FC東京 (2000年12月3日)〕、同年末に契約非継続となり現役を引退。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅野哲也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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