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浅野氏(あさのし、)は、日本の氏族。関白豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主、分家は播磨赤穂藩主。通字は「長」。 家系は清和源氏頼光流土岐氏の庶流で、土岐光衡の次男で判官代土岐光時が承久の乱で宮方であったために乱後、土岐郡浅野の浅野館に蟄居すると共に浅野氏を名乗り、光時に始まる土岐氏草創期の一族であるとされている。 == 沿革 == 浅野長勝の頃には、織田信長弓衆であったが、長勝の養女ねねが織田信長の家来だった木下藤吉郎に嫁いだことが浅野氏の転機となる。藤吉郎が出世街道をひた走ってついに天下人になると、浅野氏はその姻戚として重用された。 浅野長政は浅井旧臣・安井五兵衛重継の子として小谷に生まれ、安井五兵衛が信長家臣弓衆となり長政が浅野長勝の養子となった。藤吉郎と義兄弟の契りを交わし藤吉郎家臣となった。 豊臣政権下において、関東へ移封された徳川家康の領国に接す甲斐国には豊臣系大名が配置されているが、浅野長政は文禄2年(1593年)に加藤光泰の後任として甲斐甲府藩22万石の大名となる。長政の子、浅野幸長は徳川家康に付き、甲斐の徳川氏再領化に伴い紀伊和歌山に移封され、37万6,000石。その跡を継いだ幸長の弟、浅野長晟は安芸広島藩42万6,000石。その後広島は浅野氏の統治が維新まで続く。維新後には華族(侯爵)となった。 浅野長政の三男・浅野長重の家系は、分家して後に播磨赤穂藩藩主となるが、3代長矩(内匠頭)が吉良義央への刃傷事件により改易となる(赤穂事件)。 また浅野長晟の庶長子・浅野長治を祖とする備後三次藩5万石の家系もあったが、この家系は男子に恵まれず、養子を繰り返したがついには無嗣となり、本家に吸収されている。 さらに浅野綱長の三男・浅野長賢は、兄から3万石を分与されて広島新田藩3万石を起こしているが、明治維新後に本家に吸収された。 なお、安芸広島藩主家である浅野本家には綱晟の代に彼の正室、継室として九条道房の娘が入っており、道房の母は豊臣秀勝(秀吉の甥)の娘である豊臣完子であるため、綱長以降の浅野宗家は豊臣家の血を受け継いでいる。浅野家は明治に入り侯爵となり大名華族となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅野氏」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Asano clan 」があります。 スポンサード リンク
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