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浅野 長訓(あさの ながみち、文化9年7月29日(1812年9月4日) - 明治5年7月26日(1872年8月29日))は、安芸国広島新田藩第5代藩主、のち広島藩第11代藩主。浅野家宗家12代。 浅野長懋(ながとし、第7代藩主・浅野重晟の四男)の五男。正室は浅野長容の娘・峻。養子に甥(弟・懋昭(としてる)の子)の浅野長勲、浅野雪年(ゆきとし、1861-1936)がいる。幼名は千之助、為五郎。長訓は新田藩主時代および明治維新以降に名乗った諱であり、広島藩主時代は浅野茂長(- もちなが)を名乗っていた。官位は従四位下、安芸守、侍従。号は節山。 文政4年(1824年)6月17日、広島新田藩主・浅野長容の婿養子として家督を継ぐ。従五位下美作守に任官し、後に近江守に改める。安政5年(1858年)11月4日、広島藩第10代藩主の浅野慶熾の死去にともない、その跡を継いで広島藩主となる(広島新田藩主は甥で養子の浅野長興(のちの長勲)が継いだ)。通称を安芸守に改める。翌年2月7日、従四位下侍従に任官し、将軍徳川家茂の偏諱を与えられて茂長と改名する。万延元年(1860年)12月16日、左少将に任官した。 第9代藩主・浅野斉粛(なりたか)の時代から広島藩は財政難に見舞われていた。このため、長訓は野村帯刀・辻将曹の両名を家老(執政)として登用し、藩政改革を断行する。そして、政治刷新や有能な人材登用、洋式軍制の導入などで藩政を立て直している。慶応2年(1866年)、第二次長州征伐が起こったとき、停戦を主張し、7月には岡山・徳島両藩主との連署により幕府・朝廷に征長の非と解兵を請願した。 明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて諱を長訓に戻し、翌明治2年(1869年)正月24日には、広島新田藩主の浅野長勲に今度は宗藩の家督を譲って隠居した。明治4年(1871年)8月、長訓の東京移住に際し、それを阻止し引き留めようとする農民一揆「武一騒動」が起こっている。明治5年(1872年)7月26日、61歳で没した。墓所は広島県広島市の神田山墓地。 == 栄典 == * 1902年(明治35年)7月24日 - 贈正三位〔『官報』第5717号「叙任及辞令」1902年7月25日。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅野長訓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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