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浅野長興 : ウィキペディア日本語版
浅野長勲[あさのちょういさお]

浅野 長勲(あさの ながこと)は、日本江戸時代末から昭和初期の大名政治家外交官実業家社会事業家
安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵
== 生涯 ==
浅野懋昭(としてる。第7代広島藩主・浅野重晟の四男・浅野長懋(ながとし)の八男)の長男。安政3年(1856年)2月、伯父・浅野長訓の養嗣子となる。安政5年11月4日、養父長訓の本家相続に伴って青山内証分家(広島新田藩の別称)の家督を継いだ(この後、弟の元次郎阿部家を継ぎ、雪年(ゆきとし、1861-1936)は同様に長訓の養子、長道(ながみち、1865-1886)は自身の養子となったため、最終的には末弟の養長(やすなが、1872-1941)が懋昭の跡を継ぐこととなった)。従五位下石見守に任官し、後に近江守に改めた。なお新田藩主在任中は初名の長興(ながおき)を名乗っていた。
文久2年(1862年)12月24日、今度は宗家の当主となった長訓(茂長)の養嗣子となり、青山内証分家の家督は従弟の浅野長厚(正室は長勲の姉妹)に譲った。通称を紀伊守に改める。文久3年(1863年)2月11日、従四位下侍従に任官し、将軍・徳川家茂より偏諱を授与されて茂勲(もちこと)に改名した。元治元年(1864年)4月28日、左少将に任官した。
幕末期の動乱の中で養父の補佐を務め、江戸幕府朝廷間の折衝に尽力した。慶応3年(1867年)には大政奉還の建白書を土佐藩長州藩と共に幕府に提出した。同年10月30日長州藩嫡子・毛利元徳と会見し、同年11月28日藩兵を率いて上洛した。その後の王政復古の大号令で議定となり、小御所会議では御所の封鎖に兵を出して協力し、出席している。同会議では対立する薩摩藩岩倉具視と土佐藩を仲介した。慶応4年1月17日、会計事務総督兼任となる。同年2月20日、会計事務局補兼任となる。5月20日、免職となる。明治2年2月4日、参与に就任した。同年3月6日、議定に就任する。同年5月17日、免職となる。
明治元年(1868年)、明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて、長勲(ながこと)に改名した。明治2年(1869年)正月24日、長訓の隠居により家督を継いだ。通称を安芸守に改めた。同年3月6日、従ニ位中納言に任官した。同年6月17日に版籍奉還知藩事となり、その後は藩政改革に努めた。同年9月26日、正ニ位に昇進する。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、東京へ移った。この時に百姓一揆(武一騒動)が起こっている。これは長勲の治政に不満があったわけではなく、武家華族は明治3年(1870年)の太政官令により東京在住となったが、新体制の年貢増、外国人のキリスト教布教などの不安から前藩主長訓の東京移住を阻止しようとした、という性格の一揆であった。
明治5年(1872年)、日本最初の洋紙製造工場「有恒社」(大正13年(1924年)に王子製紙に吸収合併)を設立、明治7年(1874年)稼動する。洋紙の生産には成功するが、生産当初は国内に洋紙の需要が無く、赤字続きであった。しかし長勲は日本の近代化により必ず洋紙の需要が増えるとし、そのまま経営を続けた。
明治政府の下では、明治14年(1881年)に元老院議官、同年に外国公使就任の命を受け翌明治15年にイタリア公使となり、同年に妻の綱姫を伴って渡欧した。横浜港から香港シンガポールなどを経由してイタリアのナポリに到着した。この間、白人の支配を受けている香港やシンガポールのアジア人現地民、という植民地の実情を知る。
ナポリにて妻と共にイタリア王国国王ウンベルト1世およびマルゲリータ・ディ・サヴォイア=ジェノヴァ王妃に拝謁、明治天皇からの国書を届けた。帰国時は勲章を受けている。その後フランスやイギリスなど欧州各国を見聞し、産業や技術力をもって発展する列強各国を視察した。ロシアにて白夜を経験している。のち欧州を離れ、アメリカ合衆国を経由して帰国した。ニューヨーク滞在時は電車に乗車している。これらの経験により、のちに旧藩内の若者を数名、イギリスやフランスに留学させ、また養子の長道をもイギリスに留学させた。
明治17年に宮内省華族局長官、明治23年に貴族院議員に就任している。その間、明治17年(1884年)に侯爵となる。また、明治天皇の命により、幼少期の昭和天皇の養育係を務めた。
明治19年(1886年)、養子としていた実弟の長道(妻は加賀金沢藩前田斉泰の娘)が単身留学先のイギリスのロンドンで死去。21歳。このため、もう一人養子としていた長厚の実弟・長之(ながゆき、1864-1947)が浅野宗家の嫡子となる。
上記の製紙会社以外にも、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布の日に創刊された新聞『日本』に出資する。さらに、華族銀行と呼ばれた十五銀行の大株主の1人でもあり、明治26年(1893年)に取締役、明治28年(1895年)に頭取となった。
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに田中光顕と動いたが、叶わなかった。
昭和12年(1937年)2月1日、94歳の長寿をもって死去した。養子の長之が跡を継いだがその10年後に亡くなり、その後は長武、長愛、長孝と続いている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Asano Nagakoto 」があります。



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