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浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、日本のシンガーソングライター。身長167cm。O型。 広島県竹原市生まれ。広島県立呉三津田高校(野球部所属)卒業、神奈川大学法学部中退。 1975年、愛奴のメンバー(ドラムス・パーカッション)としてプロ・デビュー。デビュー時からサングラスがトレードマーク〔最も有名なモデルは、レイバンアビエイターやレイバンウェイファーラーなどが挙げられる。〕。1976年にソロ・デビュー。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後の数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストである。また、「ロック=英語」という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。 山口百恵、和田アキ子、能瀬慶子、甲斐よしひろ、松田優作、時任三郎、吉田栄作、榊原郁恵、真田広之、烏丸せつこら、ホリプロ所属時代に多くの楽曲を提供している〔浜田省吾 collaboration 〕〔 The Beatlemania.com 浜田省吾のソロ・デビュー20周年のFAN CLUBの会報でのインタビュー 〕〔3 「PORTBELLOの銀時計」 4 「最後の頁」 - www.geocities.jp 〕。 マスコミや一部のファン等から「浜省」(ハマショー)という愛称が使われる事があるが、これに関して本人は「快く思っていない」と言っていた。しかし近年のコンサートでは自ら「浜省」と言うことがあり(10代の観客に対し「明日学校に行ったら浜省のコンサート最高だったって言うんだよ」と呼びかけるなど)、「そのように呼ばれることに特に抵抗は無い」と語っていたこともある。 == 来歴 == === 幼少期 === 1952年に広島県竹原市に生まれる〔公式ツアー・サイト 2011/09/17 広島グリーンアリーナ 〕。生家は現在も残っており、かつてファンクラブ誌上で訪問したことがある。家族構成は本人、両親、姉2人。 父は戦前、特高警察官〔#事典360頁〕、その後は地方警察署に勤務。木江署勤務時代の1945年8月6日、広島市への原爆投下直後に救援隊として広島市に入り二次被爆した〔父の原爆投下朝の手記 〕。定年後は女子寮の寮長をしていたこともある〔。 父の転勤のため、3歳から御調郡向島町岩子島、佐伯郡廿日市町宮内、五日市町(現広島市佐伯区)、広島市元宇品(現南区元宇品)と広島県内で転校を繰り返す〔。18歳までに20回近く引っ越しをした。こうした経験が自身の人間形成に大きな影響を与えたと述懐している。 9歳のときに江田島の海沿いの町、鷲部に転居〔。この頃、ラジオから流れるビートルズの日本デビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴く。小学校4年の頃、『週刊平凡』かなにかに載ったビートルズの小さな写真を初めて見て「どの人がビートルズ」かと姉に聞いた〔#ロックは11頁〕。まだ子どもだったので複数形"S"の意味を知らなかった。当時の洋楽はソロシンガーの軽快なポップミュージックが主流だったので大きなショックを受ける。姉の誕生日プレゼントだったギターを取り上げ、ギター演奏を始める。学校でもホウキをギター代わりに演奏の真似をしたりしていた。雑誌などにビートルズの名前が載っていると、切り抜いてノートに張り付けたりしていた。 1965年、13歳の時に呉市汐見町に転居、呉市立二河中学に転校〔。以降は高校卒業まで呉市で育った〔。FEN岩国を知り、毎日ラジオに噛り付き洋楽を聴いた〔#ロックは18-19頁〕。ビートルズの他には、モータウン・サウンド、ビーチ・ボーイズ、ヤング・ラスカルズなどを好んで聴いた。少年期の音楽体験については、渋谷陽一との対談集『ロックは語れない』などに詳しい〔#ロックは9-39頁〕。また、子供の頃はロックやポップスと並んで漫画が大好きな少年で、ずっと読んでばかりで親に怒られたという。ケント紙を買ってきて、枠線を引いて自分で漫画を描いて、クラスで回し読みしていた。今はほとんど漫画は読まないらしいが、『あしたのジョー』だけは未だに全巻揃えてあるという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浜田省吾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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