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大坂城[だいさかき]
大坂城/大阪城(おおさかじょう〔古くは「おおざかじょう」と読まれていた。〕)は、摂津国東成郡大坂に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。現在の大阪市中央区大阪城の大阪城公園に所在する。別称は金城あるいは錦城という。豊臣秀吉によって築かれ、豊臣氏の本拠となった。豊臣氏滅亡後は徳川幕府によって再建された。現在は、「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。 == 概要 ==
通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、現在、地表に見える大阪城の遺構は江戸時代のもので、1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確認された。 大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったいう。石山合戦終結後は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣し「千貫矢倉」もあった(『細川忠興軍功記』)が信澄は本能寺の変の際に、丹羽長秀に討たれた〔『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔(torre)を見張っていた」という記述と符合する。〕。その後、清州会議で池田恒興に与えられるも、ただちに美濃へ国替えとなり、秀吉によって領有された。そして秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建した。その後、江戸幕府が大坂城代を置くなど近畿地方、および西日本支配の拠点となった。文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられる場合もある。 現在は江戸時初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など13棟が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている〔宮上茂隆・松岡敏郎ら執筆、学習研究社編『歴史群像名城シリーズ 大坂城』学習研究社、2000年〕。1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート構造によって復興された天守は現在登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。ちなみに、「おおさかじょう」の表記についてであるが、近代以降「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。なお、「大阪城」は大阪市の地名でもある〔郵便番号540-0002は、大阪府大阪市中央区大阪城。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大坂城」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Osaka Castle 」があります。
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