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浮田 和民(うきた かずたみ、安政6年12月28日(1859年〔『国史大辞典2』吉川弘文館、1980年。ただし、「1860年」とするものに、秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、80頁がある。〕1月20日) - 昭和21年(1946年)10月28日)は、日本の思想家・政治学者。法学博士、早稲田大学高等師範部長。同志社英学校最初の卒業生。熊本バンドの一人。 軍人の石光真清、石光真臣兄弟は従兄弟にあたる。先妻・末、後妻・五女は共に下村孝太郎の妹である。長女・操は原安三郎の妻、次女・恵美子の子は若林貴世志、三女・東子の子は浮田克躬 == 経歴 == 熊本藩士の子として生まれる。生家は宇喜多秀家の末裔であると言い伝えられている〔姜克實『浮田和民の思想史的研究―倫理的帝国主義の形成』〕。 熊本洋学校にてリロイ・ランシング・ジェーンズの薫陶を受けて、キリスト教に入信する。熊本洋学校が閉校になると、開校間もない同志社に転校し、同校で新島襄からの影響を受けた。 その後、約11年間母校の教員を務め(その間イェール大学に2年間留学)、同志社政法学校では政治学、国家学、憲法講義などを担当する。明治30年(1897年)、アメリカン・ボードと同志社の分離独立問題をめぐる学内紛争により同志社を辞職。 東京専門学校(現早稲田大学)に移籍する。早稲田に移籍後は山田一郎、高田早苗、安部磯雄らと共に早稲田政治学の基礎を形成。また総合雑誌『太陽』の編集主幹として活躍。当時の若者に大きな影響を与える。「内に立憲主義、外に帝国主義」という「倫理的帝国主義」を標榜しており、のちの民本主義につながる理論を最初に提唱したのは浮田であるとされ、吉野作造の民本主義は彼の理論を受け継いだものだと言われている。大隈重信のブレーンでもあった彼を評して坪内逍遥は浮田を「早稲田の至宝」と呼んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浮田和民」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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