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海原治 : ウィキペディア日本語版
海原治[かいはら おさむ]
海原 治(かいはら おさむ、1917年2月3日 - 2006年10月21日)は、日本防衛官僚、軍事評論家。大阪府出身。本籍は徳島県
==来歴==

*第一東京市立中学校第一高等学校を経て、1939年東京帝国大学法学部を卒業し、内務省入省。入省同期に後藤田正晴がいた。内務省大臣官房文書課勤務を経て、1940年1月に高知県事務官を発令。太平洋戦争勃発と前後して、1940年2月陸軍第11師団歩兵第43連隊(徳島)に入営、経理部幹部候補生になり、第11師団経理勤務班隊長の陸軍主計大尉として終戦を迎える。
*終戦によって第11師団は兵器を県に引渡し、県が占領軍へと引き渡すことになっていたが、目録を作成して引き渡す第11師団の経理勤務班の隊長でありながら、それを受け取る高知県事務官でもあったので同師団でもっとも早い召集解除となった。占領軍との折衝を担当する高知県渉外課初代課長。
*1946年8月警視庁に異動し交通課長、同生活課長を歴任。1947年の内務省解体後、1948年より国家地方警察本部に移り東京警察管区本部警備部長として自治体警察との調整、同保安課長として当時武装路線をとった日本共産党対策、同企画課長として警察法改正を、それぞれ担当する。1951年6月朝鮮戦争勃発に伴うマッカーサーの警察予備隊創設指令に基づき、創設準備に携わる。
*警察予備隊の創設に際しては国警本部より出向しその人事を担当、1952年に同隊後身の保安庁に転じ、後の防衛庁・自衛隊の創設に関わる。
*防衛庁では防衛局第1課長、防衛審議官、防衛局長や官房長を歴任、当時平均7ヵ月で交代する防衛庁長官たちを尻目に権勢をふるい、「海原天皇」とも形容された。
*次期事務次官の目前であった防衛庁官房長在任中の1967年、邀撃戦闘機F-104の後継機選定において、空幕のみならず内局の多数も支持していたF-4の導入に関して、海原はF-4を高級車のロールスロイスに例えながら、「日本にこんな高級で高性能な戦闘機は必要ないし、専守防衛を逸脱して周辺国に脅威を与えることになる」として反対し、後継機には、価格が安価で航続距離が短いF-5が望ましいと主張し、選定作業を混乱させる原因になった。その後、海原は官房長を更迭され、「海原一家」とも称された久保、海堀、有吉などの海原派の防衛庁幹部は海原の失脚と共に一掃された〔草柳大蔵『官僚王国論』文藝春秋 250頁〕。
*1967年から国家安全保障会議の前身の国防会議事務局長に転任、以後5年間務めた。国防会議事務局長として新聞記者との懇談会で防衛計画の遅れなどでタカ派の中曽根康弘防衛庁長官を批判した際に、1970年3月7日に中曽根長官から「国防会議事務局長というのは極端にいえば文書を集め、文書を発送するお茶汲みに過ぎないから、その発言を重大視することはない」と海原も出席していた衆議院予算委員会で発言されてしまい、議場が一時騒然になったこともある。ちなみに中曽根は内務省入省年次では海原の後輩にあたる。
*1972年に退官後は軍事評論家として活躍、『日本の国防を考える』など国防に関する著書多数で、また集英社刊『イミダス』における”国防”に関する章の編集を長く務めた。2006年10月21日死去、享年89。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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