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海汀倉の戦い[かいていそうのたたかい]
海汀倉の戦い(かいていそうのたたかい)とは、文禄の役で韓克諴率いる朝鮮軍を加藤清正率いる日本軍が破った戦い。 == 背景 == 文禄1年(1592年)、文禄の役が始まり瞬く間に漢城を占領した日本軍は八道国割で咸鏡道の平定を加藤清正、鍋島直茂、相良頼房の二番隊の担当とした。二番隊は漢城を発して北進し、臨津江の戦いの後、6月初旬金郊駅で右折し安城の民を捕えて嚮導を命じ、谷山を経て老里峴を越える。咸鏡南道兵使李渾は兵を率いてこれを迎撃しようとしたが、日本軍の先頭の兵を望見すると戦わずに潰走する。加藤清正は安辺に出て、ここに10余日留まった後、進んで永興に到る。ここで朝鮮人が立てた榜文には「二王子はこの道より北行した。」と書かれていた。鍋島直茂は留まって永興及び咸興付近を守備する。加藤清正は進んで北青に至り相良頼房をここに置き、7月15・6日頃端川に入り家臣の九鬼広隆をここの守備とし付近の銀鉱を試掘させ、北進を継続する。 この頃、臨海君、順和君の朝鮮二王子は兵を募るため咸鏡道に赴いていたが、日本軍が迫ると摩天嶺を越え会寧に入った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海汀倉の戦い」の詳細全文を読む
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