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浅井 鶴千代(あざい つるちよ、生年不詳 - 慶長7年2月17日(1602年4月9日))は、戦国時代から江戸時代にかけての女性。 == 経歴 == 浅井亮政と浅井蔵屋との間に誕生する。 後に浅井明政に嫁ぎ、海津局、饗庭局、近江局の三姉妹をもうける。明政は田屋氏の出自であった。海津局は淀殿に仕え、大坂夏の陣後は千姫と江(崇源院)に仕える。饗庭局は淀殿の乳母となり、大坂夏の陣で自害する。近江局は崇源院に仕える。 嫁いだ後は、明政は海津城の城主であったため、海津殿と称されるようになる。 織田信長と浅井長政の戦い(小谷城の戦い)では明政が討ち死にし、鶴千代は近江国の宗正寺にて出家する。出家した後は娘二人と共に淀殿に仕える。 慶長5年(1600年)の大津城の戦いで、姪の京極マリアとその娘・京極竜子、淀殿の妹・初が窮地に陥ると助け出すため使者として大津城まで赴いた。 慶長7年(1602年)2月17日に死去。戒名は栖松院殿香甫宗因大禅定尼。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅井鶴千代」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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