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海軍乙事件(かいぐんおつじけん)は、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件である。事件の際に日本軍の最重要軍事機密文書がアメリカ軍に渡った。 == 事件概要 == 1944年2月のトラック島空襲の後、連合艦隊は新たな内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受けた。そのため、連合艦隊司令長官古賀峯一海軍大将ら司令部の要員はパラオからミンダナオ島のダバオへ退避を検討した。これは連合艦隊が陸上に司令部を置き、作戦にあわせて漸次各方面陸上基地を司令部が移動する事案の予行演習をかねており、戦艦「武蔵」と第十七駆逐隊を遊撃部隊に編入させた上で、31日乃至4月1日黎明にパラオ発、ダバオ経由サイパン進出の予定と電報している〔#海軍反省会Ⅳ317頁〕。4月1日昼間出発の予定であったが、31日に七六一航空隊の偵察機(陸攻)から「1730、ヤップの200度、163マイルに空母2隻を基幹とする大部隊、進行方向西18ノット」の報告があり、加えてアラカベサン飛行艇基地が空襲警報の誤報を発した〔#海軍反省会Ⅳ318頁〕。連合艦隊司令部は、米軍がパラオに上陸してくると判断〔#海軍反省会Ⅳ322頁〕。3月31日夕刻、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、古賀が乗っていた一番機(機長:難波正忠中尉)が行方不明となった。二番機も後述のように不時着した。これは2機が異なる航空隊に所属していたため、天候不順の場合に海面を這うか(一番機)、雲上に出るか(二番機)という違う教育を受けていた為だとされる〔#海軍反省会Ⅳ321頁〕。一番機は、南方→パラオ→サイパン→パラオ→遭難という経緯であった〔#海軍反省会Ⅳ348頁、鳥巣建之助(中佐、当時第六艦隊参謀として一番機に搭乗)〕。この事故で一番機に乗った古賀以下の司令部要員7名を含む全搭乗員は「殉職」とされた。これは嶋田繁太郎海軍大臣が、古賀の行動を前線からの逃走と批判し、戦死ではなく「殉職」という扱いにさせた為である〔#海軍反省会Ⅳ323頁〕。古賀の殉職はすぐに国民には知らされず、同年の5月5日に発表され、古賀は元帥府に列せられ元帥の称号が与えられた。なお、嶋田は戦後になって「(古賀の殉職を)戦死に直せないか」と復員局に問い合わせたが、認められなかった〔。 一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた連合艦隊参謀長福留繁中将以下の連合艦隊司令部要員3名(他、山本祐二作戦参謀、山形掌通信長)を含む9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、1944年(昭和19年)3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留らは拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった(かばんを川に投げ込んだが、すぐに回収されたという)。 元々フィリピンはアメリカの植民地であり、日本軍の軍政が上手く行かなかったこともあって、住民の感情はどちらかといえば親米的であった。そのためアメリカ軍は日本の支配が続いていた間、潜水艦で連絡員を送り込むなどして現地のゲリラと連携し、その組織化に手を貸していた。日本側のセブ島の守備隊長はゲリラのリーダーに対して「解放しなければ報復を加える」と、取引に応じるようにゲリラ側を脅したとされるがが、春名幹男は米軍の指揮官(クッシング陸軍中佐)の指示を受けたゲリラが乗組員の一人(岡村松太郎中尉)を伝令として守備隊(独立混成31旅団)に「ゲリラへの攻撃中止を条件に海軍軍人を引き渡す」と守備隊の大隊長(大西精一中佐)に伝えたと記している〔春名、2003年、p.180〕。このことにより福留等は解放されたもののカバンはゲリラに没収され、作戦計画書等の機密文書はのちにゲリラからアメリカ軍の手に渡り、ブリスベーン郊外の連合国軍翻訳通訳部で、アメリカ陸軍情報部(Military Intelligence Service, MIS)の要員によって翻訳された〔ジョン・ウィントン著 左近允尚敏訳「第十章」『米国秘密情報文書ウルトラin the パシフィック』P217 (邦訳初出1995年) 同書では福留が解放されるまでの過程について細部が異なる2つの説を挙げている。2番目の説では当初古賀が不時着に成功してゲリラに捕らえられ、解放前に死亡して遺体はパラオに送られたという内容である。ゲリラのリーダーはクッシング大尉という人物だったとなっている。しかし、訳者の左近允の解説にもあるように、実際には古賀の乗機は上述のように行方不明となったままであった。クッシングは春名幹男の著書では、前出の通りゲリラを指揮する米陸軍中佐と記されている(新潮文庫版p.179)。また、同書にはクッシングらが当初福留を古賀と誤解していたとも記されている(新潮文庫版、p.180)。〕。 先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件(1943年(昭和18年)4月18日)を海軍甲事件と呼ぶことから、本件は「海軍乙事件」と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海軍乙事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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