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浄ノ池特有魚類生息地(じょうのいけとくゆうぎょるいせいそくち)とは、静岡県伊東市和田1丁目にかつて存在した、国の天然記念物に指定されていた小さな池である〔指定時の大正11年内務省告示第49号(1922年3月8日)では「淨の池特有魚類棲息地」と表記されているが、指定解除時の昭和57年文部省告示第90号(1982年5月21日)での表記は「浄ノ池特有魚類生息地」である。本記事名は後者の表記によった。〕。 水面面積わずか15坪のこの池は、池底より温泉が常に湧出していた〔平間・斎藤・黒板・吉川編 (1958)、p.90〕ため、水温が年間を通じ摂氏約26℃から28℃の微温湯に保たれており、淡水であるにもかかわらず複数種の南方系海水魚・汽水魚が生息していたことから、特有の魚類生息地として1922年(大正11年)に国の天然記念物に指定された〔静岡県編 靜岡縣史蹟名勝天然記念物調査報告 第一巻 (1931)、pp.15-16〕〔文化庁文化財保護部監修(1971)p.53〕〔史跡名勝天然記念物東日本の部 (1957)、p.90〕。しかし1958年(昭和33年)の狩野川台風の影響および温泉湧出の停止等、生息域環境の変化により特有の魚類は見られなくなり、1982年(昭和57年)に天然記念物の指定が解除された。 浄ノ池(以下、浄の池と記述する)は指定解除後に埋め立てられ池自体が消滅しており、2016年現在、跡地には民間病院が建てられ往時を偲ぶものは残されていない。しかし、かつて浄の池は家屋の密集する市街地に位置する交通の便の良い珍しい天然記念物であったことから、温泉都市伊東温泉における代表的な名所として大正期から昭和中期にかけ多くの観光客が訪れる場所であった〔。人々は池に閉じ込められた南海産の珍奇な魚類を眺め、天然のビオトープとも言える小さな水中の不思議な生物相に想いを巡らせた。 == 浄の池の歴史 == === 浄円寺 === 浄の池(じょうのいけ)の所在地は、静岡県旧田方郡伊東町玖須美(くすみ)区井戸川466番地の3〔黒田 (1921)、p.1〕(現:伊東市和田1-4-20)、2015年現在の医療法人社団望洋会横山医院の建つ場所()であり、今日の伊東駅、伊東市役所、伊東港の3点を囲んだ伊東市街地中央の住宅密集地に位置していた。 浄の池の所有者は、この池より東南東へ約300メートル離れた場所に所在する浄土宗寺院浄円寺(旧字表記は淨圓寺。伊東町玖須美区179、現:伊東市和田2-3-1・)であり、浄の池は同寺院の所有地であった〔黒田 (1921)、pp.2-3〕。浄円寺は古くは伊豆半島中央部の賀茂郡冷川村(現:伊豆市東部)にあり、天正年間に伊豆東岸の岡村(現:伊東市内の岡地区)へ移転された。しかし当地が狭隘であったことから寛永元年に再度、岡村より海寄りの和田村へ移転し、和田村の多くの土地を寺領とした。 この和田村が浄の池の所在していた現:伊東市和田地区であるが、この付近一帯は当時、田畑もない荒れ果てた土地であった。そこに自然の池、もしくは微温湯の湧出する水溜りがあったのかは不明であり、浄の池の成因由来についてははっきりしていない〔浄の池 絵葉書解説書表面右頁(1936)〕。 以下に示す文書は浄の池一帯の土地にまつわる浄円寺に残されている古文書の文面である。 古文書の内容は浄円寺が和田地区への移転を希望する旨の願い出に対する、井出志摩守(当時の伊豆国・駿河国の代官や駿府町奉行などを勤めていた人物)側からの許可返答であり、 花押にある金吾惣左衛門とは井出志摩守の家臣である。このような経緯により、浄の池周辺の和田地区一帯は17世紀前半に浄円寺の寺領となり、当地に寺院が移転造営された〔。 しかし元禄16年11月23日(1703年12月31日)に発生した元禄関東地震〔pp.194-197〕の海嘯(津波)により、庫裏以外の堂宇を流失してしまったため、八世観誉によって少し山側へ寺院が再建された。これが今日の浄円寺の位置である。流失した堂宇のあった境内一帯は、その後幕末の頃まで荒れるがままに放置されていたという。幕末頃より当地周辺に民家が建ち始め、荒れ果てた旧浄円寺の境内にあった池は誰ともなくこの頃より浄の池と呼ばれるようになった〔。 浄の池の名称の由来はこのように「浄円寺の池」の意味である〔黒田 (1921)、p.2〕〔。だが、前述の経緯により池の所在地(旧境内域)と再建された寺院の境内は直接隣接しておらず、かつ両者の間は明治期以降急速に家屋が立ち並び住宅密集地となったため、一見しただけでは当寺院と当池との関連性は分かり難いものであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浄ノ池特有魚類生息地」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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