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明瀬山光彦[あきせやま みつひこ]
明瀬山 光彦(あきせやま みつひこ、1985年7月18日 - )は、名古屋市の北隣・愛知県春日井市出身で木瀬部屋(閉鎖処分中は北の湖部屋)所属の現役大相撲力士。本名は、深尾光彦(ふかお みつひこ)、愛称はみっちゃん。身長182cm、体重175kg。最高位は東前頭16枚目(2016年3月場所)、血液型はA型、星座は蟹座。好物は肉類とケーキ。趣味は音楽鑑賞と食べ歩き。〔『相撲』2014年3月号59頁〕 == 人物 == 建材店の「深尾タイル」を経営している家の長男坊に生まれる〔春日井市の建材店【深尾タイル】のホームページへようこそ (^o^)/ 〕。春日井市立柏原小学校在籍中に「中京クラブ」で相撲を始め、そこで1年先輩の市原孝行に出会う。それ以来、市原を尊敬するとともに目標とし、小学校4年生と5年生の時にはわんぱく横綱に輝いた。市原とは、相撲の名門埼玉栄高校、日大相撲部でも一緒で共に相撲の腕を磨いてきた。小学校6年の時(1998年3月31日)に春日井市で巡業が行われた際に、当時の相撲人気(若貴ブーム)を実際に目の当たりにしたことで憧れもあり〔ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2016年3月号(春場所展望号) 46頁〕、大学4年の時に大相撲入りを決意、この時に入門先を選んだ相撲部屋も市原がいる木瀬部屋だった。そんな深尾であったが市原はライバルでもあり、大学3年の時には全日本相撲選手権の決勝戦で戦ったが、この時は寄り倒しで敗れ「市原超え」は大相撲の世界へと持ち越しになった。また2005年(平成17年)には、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた「世界相撲チャレンジ――巨人の戦い」で優勝している。〔ニューヨークで相撲の世界大会、米国版「スモウ」はエンタメ性重視-NIKKEI NET:国際コラム〕 2008年(平成20年)1月場所、本名の深尾の四股名で前相撲から初土俵を踏んだ。入門時の体重は198kgの巨漢で、腹が大きく両方の乳房がひどく垂れ下がっている一方で、素早い動きも出来ることで、序ノ口、序二段共に7戦全勝と圧倒的な強さを見せた。2008年(平成20年)3月場所の序ノ口優勝表彰式では、土俵に上がるときに乳房や腹があまりにも揺れることから観客がどよめいた。2008年(平成20年)5月場所の序二段優勝決定戦では、体型に似合わず土俵内を素早く動き回る相撲を見せたが、惜敗した。翌7月場所の三段目も6勝1敗と一場所で通過し、一気に幕下まで番付を駆け上がった。タレントで元関脇隆乃若の尾崎勇気は自身のブログにおいて、明瀬山の体型について「隆の鶴と増健を足して2で割ったような非常に柔軟な体つき」と評価している。右足を引いて斜めに構える独特の仕切りが特徴的であるが、動作の遅さから勝負審判に注意される場面がしばしば見られる。額が推定2.5cmととても狭く、どんな大銀杏姿になるか非常に出世が期待されていたが、2010年(平成22年)7月場所13日目、この場所は東幕下7枚目であったが、十両の佐田の海と対戦が組まれたため、本場所では初めて大銀杏を結った。 2010年9月場所は東幕下2枚目で4勝3敗と勝ち越し。翌11月場所で新十両。同時に四股名を深尾から明瀬山(あきせやま)に改名。実家の建材店「深尾タイル」のHPに四股名の由来が記述されており、両親の名前の一部から「明」、木瀬部屋から「瀬」、愛知中京クラブのコーチと埼玉栄相撲部の名字(山田)から「山」をそれぞれ頂戴したと説明されている。新十両昇進時には日本大学理事長の田中英壽らより化粧まわしと明荷が贈られ、「日本大学で培った精神力で卒業生の名に恥じないよう、上位をめざしたい」と抱負を語った。〔明瀬山関(新十両)に化粧廻し贈呈 日本大学ニュース 2010年10月26日〕自己最高位の西十両7枚目で迎えた2011年5月技量審査場所では4勝11敗と大きく負け越したが、大相撲八百長問題で十両力士が多数引退したため、幸運にも東十両8枚目と半枚番付を落としただけであった。しかし7月場所も2勝13敗と大きく負け越し、幕下に陥落した。 その後は腰のヘルニアに悩まされて〔『相撲』2012年1月号80頁〕1年以上幕下から十両に上がれずにいたが、2012年に入ってからは張り差しから始まり押し込みながら上手取ってがぶり寄りを展開する相撲を見せるなど内容が充実していった。西幕下5枚目であった2012年9月場所は6勝1敗と大勝ちし、ようやく再十両昇進が決まった〔竜電がただ1人新十両 九州場所番付編成会議 MSN産経ニュース 2012年9月26日閲覧〕。この年の4月に木瀬部屋が再興され明瀬山も移籍しているため、木瀬部屋移籍後では初めて関取に昇進、この場所を勝ち越しで締めくくった。以後4場所十両を務め7〜8勝の小幅な勝ち越し・負け越しを挙げたが、2013年5月場所に7勝8敗を喫すると7月場所は東十両13枚目から運悪く西幕下2枚目まで地位を落とした。またしても関取に返り咲いた2013年9月場所は8勝7敗で終え、この場所では右足を大きく引いて斜めに構えた独特の仕切りを行わなくなっていた。〔『相撲』2013年11月号58頁〕翌11月場所は番付運に恵まれて5枚半上昇の東十両8枚目の地位で土俵に上がるも、6勝9敗の負け越しに終わった。翌2014年1月場所は幸運にも1枚半減に留められて西十両9枚目の土俵に上がったが5勝10敗の不振に終わった。同年9月場所限りで7場所続いた十両の地位を離れるが、1場所の幕下生活を経て2015年1月場所で十両に復帰すると、同年7月場所からは十両では自身初となる3場所連続の勝ち越しとなった。特に、11月場所は4年ぶりに半枚ではあるが自己最高位を更新した場所で勝ち越しとなった。更に自己最高位を更新して西十両5枚目となった場所でも8勝7敗と勝ち越すと、幕内で成績不振者が多かったため、同年3月場所では新入幕となった。新入幕まで所要48場所は学生相撲出身者としては4位のスロー出世で、上位3人は他大学出身であるため、日大出身者に限れば最スロー昇進である〔ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2016年3月号(春場所展望号) 52頁から53頁〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明瀬山光彦」の詳細全文を読む
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