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深見 東州(ふかみ とうしゅう、本名:半田 晴久(はんだ はるひさ)1951年3月18日 - )は日本の芸術家〔〔、福祉活動家〔、実業家〔〔、宗教家〔、フィランソロピスト(慈善活動家)〔、評論家〔。歌手〔、オペラ歌手〔〔、画家〔〔、書家〔〔、能楽師〔、詩人〔〔、作曲家〔などとして、幅広い活動をしている〔〔。 主に、芸術活動や宗教活動を行う際は、深見東州(ふかみ とうしゅう)という通名を使用している。公益活動や実業家として、また学術活動や評論活動を行う際は、本名の半田晴久(はんだ はるひさ)で活動している。また、劇団団長や小説家、詩人等の文芸活動を行う際は、戸渡阿見(とと あみ)というペンネームを使用している。ほか、上記のあらゆる活動を行う人物として、レオナルドTOSHU(レオナルドとうしゅう)というペンネームをラジオパーソナリティ名やTwitterで使用している。過去には、深見青山(ふかみ せいざん)というペンネームを使用していた〔。 実践することで初めて分かる本当の良さ、面白さがあるとして、意欲的に芸術活動に取り組む〔。また、普遍的な宗教性を広めることが大切であるという考えに基づき、特定の宗教に偏らない人類愛、人道主義、平和のメッセージを実行できるよう、活動内容によって、NPO法人など別個の法人格を持つ複数の団体を設立し代表を務めている〔。 == 来歴 == === 学生時代 === 1951年、兵庫県西宮市で生まれる〔。生家は代々酒樽製造業を営んでおり、最盛期には灘五郷の酒蔵の酒樽作りを一手に引き受けていた日本一の酒樽屋だった。子どもの頃は、昆虫や魚を追いかけて外を駆け回り〔、テレビアニメや漫画に夢中で、いつでもどこでもアニメ主題歌を大きな声で歌っていた〔。これについて深見は「心と魂の一番深い部分にある、音楽のルーツこそが、昭和のアニメソングとテレビ主題歌である」と述べている〔。1962年、10歳の頃から近隣の世界救世教で信仰に目覚めた母より宗教心を育てられる。1967年、15歳で世のため人のために生きるという人類救済の発願をする。中学3年から川柳をはじめる(後述)。兵庫県立鳴尾高等学校に進学し、16歳のときに、字の綺麗なラブレターをくれた女子にふられたことをきっかけに、字が上手になりたいと書道をはじめ、田端曲全に師事し書道部部長をつとめる(後述)〔。この頃、母の原因不明の病気治癒がきっかけで救世教から大本教へ転向し、大本の教典である『お筆先』や出口王仁三郎の著書『霊界物語』を繰り返し読み、救世教当時の疑問を解決する。18歳より俳句をはじめる(後述)。 大学入学前に突然読書に目覚めて一日一冊以上読破するようになり、純文学、恋愛小説、哲学書など1000冊以上をこの時期に読む〔。また、中学からクラシック音楽を聴くようになり、大学に入るまでに、有名なクラシックはほとんど聴き終わった〔。同志社大学経済学部に進学すると、父と神戸大学ESSで活動した叔父の二人から半ば強制的にESSに入るように命じられ、後にESSのプレジデント(委員長)とディスカッションセクションの代表を務め400人の部員をまとめ組織改革を行う〔。専攻は国際金融論。ゼミのテーマは「南北問題の経済援助について」。同志社大学能楽部宝生会にて、柏原仁兵衞及び辰巳孝に師事し、能をはじめる(後述)。20歳より茶道をはじめる(後述)。大学4年から森田流笛(能管)をはじめる(後述)。 同志社大キャンパスがある京都は外国人観光客が多く、在学中に日常的に英語で話しかけられたり名所巡りの指南をする場面があった〔。そのため、日本文化を英語で論理的に説明することに興味を持ち、ESSでディベートやディスカッション、スピーチをするなかで、日本文化のアイデンティティを英語で伝達出来るようになったという〔。ESSで英語コミュニケーション能力を培った京都での4年間が、のちの活動のベースになっていると思うと、深見は述べている〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「深見東州」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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