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浅原源七[あさはら げんしち] 浅原 源七(あさはら げんしち、1891年9月1日 - 1970年8月23日)は日本の実業家、技術者である。日産自動車社長や自動車技術会会長を務め、日本の自動車産業発展の礎を築いた人物の一人である。 なお、正確な氏名は旧字体の「淺原源七」であるが、ここでは「浅原」で統一する。 ==来歴・人物== 東京帝国大学理学部化学科を卒業後、理化学研究所に勤務。主任研究員として研究を進める。その後、戸畑鋳物に入社。1933年に同社は日産自動車となり、浅原は民生・軍用トラックの生産を中心とした同社の中心的人物として、日産コンツェルン創始者の鮎川義介を助けた。1942年から1944年までは同社の第3代社長となった。 戦後はGHQの経済科学局顧問となり、自動車産業の復興や技術開発に尽力した。1951年には日産自動車の社長に復帰し(第8代)、1953年の日産争議を経営陣勝利に終わらせ、その後の急成長を導いた。6年間の在任後、1957年にその地位を川又克二専務に譲った。1970年8月23日死去。享年79。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浅原源七」の詳細全文を読む
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