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添田 敬一郎(そえだ けいいちろう、1871年10月12日(明治4年8月28日) - 1953年(昭和28年)10月20日〔『日本近現代人物履歴事典』293頁。〕)は、日本の内務官僚、政治家。衆議院議員、埼玉県知事、山梨県知事、山形県知事などの要職を歴任した。 == 経歴 == 小浜県遠敷郡西津村(のち雲浜村西津、現福井県小浜市)〔『山梨百科事典』増補改訂版、552頁。〕に、旧小浜藩士、、滋賀県を務めた添田良平の長男〔として生まれる。第三高等学校を経て、1898年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業〔。東京帝大では一木喜徳郎のもとで学んだ。同年7月、内務省に入省し内務属・庶務局地理課勤務となり、同年10月、兵庫県属・内務部第一課勤務に異動〔。同年12月、文官高等試験行政科試験に合格〔『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』179頁。〕。 以後、大分県警察部長、熊本県事務官・第四部長、山梨県第一部長兼第三部長〔『官報』第6925号、明治39年7月30日。〕、同県内務部長、滋賀県内務部長などを歴任〔。 1913年6月に埼玉県知事に就任。県政の能率向上に努めた〔『新編日本の歴代知事』313頁。〕。1914年6月、山梨県知事に転任。軍人遺族救護資金管理規則、水害罹災者救恤資金管理規則を制定〔『新編日本の歴代知事』499頁。〕。1916年4月、山形県知事に転任〔『新編日本の歴代知事』194頁。〕。1917年12月、内務省地方局長に転じ、1920年10月、依願免本官となり退官し協調会常務理事に就任〔。 その後政界に転身し、1923年5月、第14回衆議院議員総選挙の山形県第一区補欠として当選〔『官報』第3237号、大正12年5月17日。〕。さらに1928年2月の第16回総選挙で福井県選挙区に立憲民政党から出馬し当選。その後第21回総選挙まで連続6回の当選を果たし、1945年まで衆議院議員を通算7期務めた。この間、1934年、岡田内閣の文部政務次官に就任し、その他、立憲民政党総務を務めた〔『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』348頁。〕。1946年(昭和21年)に公職追放となり、1951年(昭和26年)に追放解除となった〔。 ほかに、住宅営団理事長、協調会会長などを務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「添田敬一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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