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清原 大貴(きよはら だいき、1989年6月11日 - )は、茨城県龍ケ崎市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 経歴 == ===プロ入り前=== 小学校3年生で兄の影響で竜ケ崎リトルにて野球を始める 竜ヶ崎シニアでは部員が人数ギリギリと言う事もあり公式戦での成績はほとんどなく、本人の試合で勝ちたいと言う思いと素質を見出され、兄の博城がキャプテンを務める県内屈指の強豪校常総学院高校へ進学。 同校では、1年秋から打撃を買われ内野手のレギュラーに抜擢されるが、顔面の骨である右頬骨骨折をし、手術の影響で視力が著しく低下するという事もあったが本人の手術中に行われていた秋季県大会ではチームは準優勝を果たし関東大会へ駒を進めた。 関東大会からは背番号こそ二桁だったが初戦の浦和学院戦では3番三塁手としてスタメン復帰し4打数3安打と活躍した。 ベスト4を決める来春のセンバツ大会を懸ける横浜高校戦では5番三塁手としてスタメン出場し、先制打を放つなど活躍したが延長10回の末11-7で敗戦した。(この試合でセンバツ出場を決めた横浜高校は同大会で優勝し日本一となった。) 2年生の春からは投手に転向すると、第88回全国高等学校野球選手権大会茨城県大会で優勝。投手兼外野手として臨んだ全国大会では、初戦の今治西高校戦で代打として安打を放ちリリーフとして好投したが、チームは敗れた。 チームはこの大会後に、暴力事件や特待生問題など(他の部員による不祥事や野球特待生問題など)で一時活動を自粛。その影響で、清原も3年生の春まで実戦から遠ざかっていた。 しかし謹慎明けの6月には関東圏の甲子園常連校との練習試合では8試合に先発し、6試合連続完封という記録を残しプロのスカウトらの注目を集め始めた。その練習試合では8試合で3本塁打を放つなど打撃でも成長を見せた。 夏の第89回全国高等学校野球選手権大会では、不祥事などもあり前評判こそよくなかったが、2番手投手久保田大城と2枚看板として3試合に先発(いずれも完投)2試合にリリーフし代打や外野を守るなどフル回転しチームを2年連続の県大会優勝・甲子園出場を決めた。 甲子園の初戦で京都外大西高校打線を9回まで1安打無失点と完璧に抑えたものの打線の援護もなく、延長に入りエラー・連携ミスなど常総学院らしさを欠き打線の援護もなく延長12回165球を1人で投げ抜いたが敗戦した。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清原大貴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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