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清原武衡 : ウィキペディア日本語版
清原武衡[きよはら の たけひら]

清原 武衡(きよはら の たけひら、生年未詳 - 寛治元年11月14日1087年12月11日))は、平安時代後期陸奥国出羽国の武将。父は鎮守府将軍清原武則〔〔〔竹内一朔「清原氏【武衡 たけひら】」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074〕、母は安倍頼清女〔宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年〕と伝えられる。武貞の弟〔〔。義理の兄弟に吉彦秀武がいる〔。通称将軍三郎〔〔、岩城三郎〔『菅家系図』など〕。
== 生涯 ==
清原氏出羽に勢力を持った豪族であった。武衡は、『清原系図』によると陸奥国磐城郡を領していたという〔〔樋口知志は、「藤原清衡論(上)」(『アルテス リベラレス(岩手大学人文社会科学部紀要)第82号』岩手大学、2008年)の中で、海道平氏に一時養子入りしていたとの説を述べている。〕。父武則が源頼義の要請により前九年の役に参戦し安倍氏を滅ぼした際には名前は見えない〔樋口知志は、「藤原清衡論(上)」の中で、前九年の役に参戦した清原武道と同一人物でないかとの推察をしている。〕。清原氏の相続争いとなった後三年の役において沼柵(現秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった甥家衡清原清衡源義家連合軍を破るとこれに応援に駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(現秋田県横手市金沢中野)に移ることを勧めた〔〔〔〔『奥州後三年記』〕。
しかし、義家方に加わっていた吉彦秀武の献策により兵糧攻めが行われると柵内の士気は低下し、これを回復しようと、家衡の乳母の子の藤原千任が義家に向かって「汝が父頼義、貞任宗任をうちえずして、名簿を捧げて故清将軍を語らい奉り、偏にその力にて、たまたま貞任をうちえたり。恩を担い徳を頂きて。いづれの世にか報ひ奉るべき。しかるを汝すでに相傳の家人としてかたじけなく重恩の君を攻め奉る。不忠不義の罪さだめて、天道の責めをこうぶらんか」と言ったが、義家方の恨みを買っただけであった〔。
武衡は義家の弟義光に連絡して降伏しようとし、一度義光の郎党である藤原季方が交渉にやってきた事もあったが義家はこれを許さなかった。柵の陥落後、近くの蛭藻沼(現秋田県横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられた〔。刀の鞘の尻を切って口に当て、水中に沈んでいたとされる〔。義家は武衡に「軍の道、勢を借りて敵を討つは、昔も今も定まれる習ひなり。武則且は官符の旨にかませ、かつは将軍の語らひによりて、御方に参り加れり。然るを先日従僕千任丸に教えて、名簿ある由申しは、件の名簿さだめて、汝傳へたるならん。すみやかにとり出べし。武則えびすの卑しき名をもちて、忝なく鎮守府将軍の名を汚せり。これ将軍(頼義)の申行はるるによりてなり。是すでに功労を報ふにあらずや。いはんや汝らは、其身に些かの功労なくして謀反を事とす。何事によりてか些かのたすけをかふるべき。しかるをみだりがはしく、重恩の主となのり申、その心如何たしかにわきまへ申せ」と責め立てた〔。武衡は一日の助命を請い、義光も降人を助けるのは古今の例と助命嘆願したが、義家は宗任のように自首する場合を降人と言うべきで、武衡は違うとして斬首した〔。
その後義家は、千任の歯を金箸で折り舌を切った上で木の枝に吊し、足下に武衡の首を置き、千任が疲れて首を踏むと「二年の愁眉今日すでにひらけぬ」と喜んだという〔。
== 注釈 ==

== 出典 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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