翻訳と辞書 |
清原岑成[きよはら の みねなり]
清原 岑成(きよはら の みねなり)は、平安時代前期の公卿。当初美能王次いで岑成王を称するが、臣籍降下して清原真人姓を賜与された。舎人親王の玄孫。筑後守・弟村王の子。
== 生涯 == 天長5年(828年)近江大掾を経て、天長6年(829年)従五位下・筑後守に叙任される。その後、天長9年(832年)従五位上、天長10年(833年)正五位下、承和元年(834年)従四位下と、淳和朝から仁明朝初頭にかけて順調に昇進を重ねる。またこの間の天長10年(833年)には美能王から岑成王に改名している。 承和7年(840年)淳和上皇の崩御にあたっては、養役夫司を務めている。承和11年(844年)越前守に任ぜられて当初は赴任するが、休暇により帰京したまま隠棲して出仕しなかったことから、同年10月に弾劾を受けて官位を剥奪された。承和13年(846年)赦されて再び正五位上に叙せられ、承和15年(848年)従四位下に復した。この間、大和守・美濃守・弾正大弼を歴任する。嘉祥2年(849年)臣籍降下して清原真人姓を賜与される。同年閏12月左中弁。 嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられる。仁寿2年(852年)2月再度越前守に任ぜられて現地に赴任するが、8月弾正大弼に転任した。以降、斉衡2年(855年)従四位上・右大弁、天安元年(857年)大蔵卿と要職を歴任した。 貞観元年(859年)参議に任ぜられて公卿に列す。貞観2年(860年)大宰大弐となるが、大宰府へ赴任中の翌貞観3年(861年)2月29日卒去。享年63。最終官位は参議従四位上行大宰大弐。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清原岑成」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|