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清宮 博(せいみや ひろし、1908年8月6日 - 1976年4月27日)は電気工学者〔『広島県大百科事典〈上巻〉』中国新聞社、1982年、767頁〕、実業家。元富士通社長、会長。日本のコンピューターパイオニアの一人〔日本のコンピュータパイオニア 清宮 博 〕。旧姓根岸。 == 経歴 == 広島県広島市大手町(現在の同市中区)出身〔。広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属高校)~第一高等学校~東京帝国大学電気工学科卒(1932年)〔。逓信省電気試験所第4部に入り、光通信、電子管(マグネトロン、速度変調管)などの研究を担当〔。1936年、関杜夫とともにグラスファイバーを光通信に使うアイデアを発明した〔光通信 - 株式会社 発明通信社 発明コラム 〕〔製品開発における競争と協力 - 明治大学 〕〔光ファイバーの原理そのものである「光線の全反射を利用する内面を有する光線の導管を通して信号光線を伝送することを特徴とする」特許を申請したが、当時は作る技術が伴わなかった(『週刊朝日』1982年10月8日号113頁)。〕。 終戦後の1947年12月23日、アメリカベル電話研究所でトランジスタが発明され、翌1948年6月30日公表された〔村松貞次郎「日本の『創造力』⑪ 近代・現代を開花させた四七〇人」日本放送出版協会、1993年、512頁〕。このニュースはアメリカでも大きく扱われることはなく、戦後の混乱期であった日本でも、情報はGHQによって統制され、海外の情報を入手するのは非常に困難な状況にあったが、GHQによってこのニュースが電気試験所に持ち込まれ、清宮は渡辺寧、駒形作次ら幹部とその現場に居合わせた〔〔志村資料_14 、我国における半導体研究外史 (ー) 、『日本のエレクトロニクスの源流-電気試験所神代分室の記録-』 〕。 1948年電気試験所から電気通信部門が分離され電子管部長に就任、1949年電気通信省電気通信研究所設置で器材実用化部長に就任〔〔philosophy 武田賞 武田研究奨励賞 武田奨学賞 、The Takeda Foundation Symposium 〕。 1955年電電公社理事となるが〔同年、富士通信機製造(現・富士通)第一技術部長に転出〔。1958年コード会参加。1960年富士電機常務、1971年富士通副社長経て1974年11月、同社社長に就任、1976年会長となった。社長在任時は電算機(計算機)の輸出に力をいれた〔『週刊朝日』1975年2月7日号109頁〕。 主に通信工学の分野で業績を挙げ、電気学会、通信学会の各会員を務める〔。著書『真空管とその回路』で電気学会著述賞を受賞〔。他の著書に『最近の真空技術』『応用音響学』などある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清宮博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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