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清正公信仰 清正公信仰(せいしょうこうしんこう)とは、戦国武将で後に熊本藩の初代藩主となった加藤清正(かとう きよまさ)の没後、彼を祀って所願成就を願う信仰。当初は清正が崇敬・保護した法華宗(日蓮宗)が中心となっていたが、明治維新の神仏分離の際に加藤神社が創建されたことにより、神道による信仰も行われた〔田中青樹「民衆の信仰としての清正公信仰」〕。 == 生前 ==
加藤清正は幼いころから母親の影響によって熱心な法華宗の信者になったと伝えられている。その言い伝えの真偽は不明であるが、母の没後に天正13年(1585年)に大坂城近くの難波に寺院を建てて京都中の法華宗の僧侶を招いて法要を行ったとされ、清正自身も「南無妙法蓮華経」の記された旗印を用い、京都の本圀寺に三十番神堂を寄進したとされる。清正が天正16年(1588年)に肥後国の北半分を与えられて熊本城に入ると、難波の寺も熊本に移転されて本妙寺となった〔。 清正は元々は石田三成らとともに豊臣政権の財務・民政を担当して肥後半国を与えられたが、朝鮮出兵で武勇を顕し、また作戦方針などを巡って三成や小西行長らと対立したことから、関ヶ原の戦いでは東軍(徳川家康側)に加わり、小西行長の旧領である肥後国の南半分を与えられて、人吉藩領を除いた肥後一国を支配することになった。関ヶ原の戦い後は連年の戦争で疲弊した領国の再建に努めた〔山田貴司「加藤清正論の現在地」(山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清正公信仰」の詳細全文を読む
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