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済爾哈朗 : ウィキペディア日本語版
ジルガラン

ジルガラン済爾哈朗、、1599年 - 1655年6月11日)は、清朝初期の愛新覚羅氏満州貴族、太祖ヌルハチの弟シュルハチ(舒爾哈斉)の6番目の息子である。摂政や政治・軍事における指導者を務めた人物であり、1638年から1643年までは明朝打倒のための数多くの軍事作戦を担い、1643年のホンタイジ(太宗)の死後には、ジルガランは幼い順治帝の2人の摂政のうちの一人となった。しかし、その後間もない1644年10月にほとんどの権力をもう一人の摂政ドルゴンに明け渡すことになり、最終的にジルガランは1647年に摂政の地位から追い落とされた。1650年のドルゴンの死後、ジルガランはドルゴンの旧支持者の一掃に努めた。ジルガランは10人の和碩親王の一人であり、その子孫は代々、鉄帽子王としての爵位を認められた。
== 1643年以前の功績 ==
1627年、ジルガランは朝鮮への第一次侵攻(丁卯の役)に兄アミン(阿敏)の指揮下で参加した〔Kennedy (1943a): 397.〕。1630年、アミンは明朝に対する敗戦の責により鑲藍旗の指揮権を剥奪され、ヌルハチは代わりにジルガランにその地位を与えた〔Kennedy (1943a): 397.〕。ジルガランはダイシャンマングルタイ、ホンタイジ本人と共に、四大貝勒の一人として明朝とチャハル・モンゴルとの数多くの戦いに参加した〔Kennedy (1943a): 397.〕。1636年には和碩鄭親王の位が与えられ、その子々孫々の継承が認められた〔Kennedy (1943a): 397.〕。1642年に明の遼東の要衝都市錦州を包囲する軍を指揮したが、同年4月から1年以上の間抵抗を受けた〔Wakeman (1985), 221-222.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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