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渋谷総司[しぶや そうじ]
渋谷 総司(しぶや そうじ、弘化3年(1846年) - 慶応4年3月3日(1868年3月26日))は日本の江戸時代末期の志士。赤報隊隊士。 == 生涯 == 渋谷は弘化3年(1846年)に下総国小金佐津間村(現・千葉県鎌ケ谷市)の名主の次男として生まれる。22歳の時に薩摩藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視らの支援を受けて結成した赤報隊に入隊。倒幕派の渋谷は赤報隊の隊士と共に江戸で放火、略奪、暴力などを繰り返して、幕府を挑発する行動をとった。そのような行動を幕府は戒めようと何度も取り締まりを行い、乱闘や拘束を繰り返した。 慶応3年(1867年)11月に渋谷を含む赤報隊は流山で150名もの集団となって行軍を開始。12月には幕府の役人や諸藩の藩兵と交戦するも大勢の兵を前にしだいに力が衰え、ついに鎮圧された。鎮圧された後も残りの隊士で交戦しようとするも歯が立たず、薩摩藩邸へ逃走した。しかし戦いの数日後、幕府の役人が赤報隊の隊士たちが薩摩藩邸に潜伏しているという情報を入手し討ち入りを決行。突然の事にパニックに陥った。その討ち入りで隊士が拘束、殺害されたが、赤報隊一番隊隊長の相楽総三や渋谷は無事に藩邸を脱出し、品川沖の薩摩藩の運搬船で紀州へ逃亡した。しかし、相楽と共に乗り込もうとした赤報隊隊士など150名程が乗り損ねてしまった。 その後、大政奉還が成立し幕府は崩壊、新政府が発足したが、渋谷は赤報隊と共に年貢半減などを訴えて活動を続けた。しかし、その活動は新政府の反発をかい偽官軍の烙印を押されてしまう。その後、渋谷のいる一番隊は信濃国へ進み中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を新たな拠点とした。しかし、新政府は偽官軍の烙印を押した赤報隊に逮捕命令を出し追分宿で相楽や渋谷らその他隊士を拘束。3月3日、相楽を処刑した後、渋谷も同様に処刑された。享年22。 処刑から60年後(1928年)、相楽の孫らの活動により相楽に正五位、渋谷に従五位が贈られた〔魁塚(相楽塚) 2011年9月24日閲覧〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渋谷総司」の詳細全文を読む
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