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渡辺喜美 : ウィキペディア日本語版
渡辺喜美[わたなべ よしみ]

渡辺 喜美(わたなべ よしみ、1952年3月17日〔 - )は、日本政治家。元衆議院議員
衆議院議員(6期)、内閣府特命担当大臣規制改革)、内閣府特命担当大臣(金融)、みんなの党代表(初代)を務めた。
父は元衆議院議員で副総理外務大臣大蔵大臣通商産業大臣等を歴任した渡辺美智雄
== 来歴・人物 ==
栃木県那須郡西那須野町(現那須塩原市)生まれ〔。栃木県立大田原高等学校〔、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。その後中央大学法学部学士入学し、卒業。1983年から父・渡辺美智雄の秘書を務める。のちに美智雄が通商産業大臣外務大臣に就任した際はそれぞれ政務秘書官に就任。
1995年9月、父・美智雄が死去。父の地盤を継承し、1996年第41回衆議院議員総選挙栃木3区から自由民主党公認で出馬し、初当選した(当選同期に河野太郎菅義偉平沢勝栄大村秀章河本三郎桜田義孝下地幹郎下村博文新藤義孝滝実棚橋泰文谷畑孝田村憲久戸井田徹松本純など)。当選後、美智雄がかつて会長を務めた旧渡辺派に入会。1990年代後半の金融危機では「政策新人類」の1人とされ〔asahi.com:新行革担当相の渡辺氏 行動派の「政策新人類」 2006年12月28日12時37分 〕〔(魚拓)asahi.com:新行革担当相の渡辺氏 行動派の「政策新人類」 2006年12月28日12時37分 〕、金融再生法の成立に尽力。
2000年11月、加藤の乱をきっかけに江藤・亀井派を退会し、同党離党まで無派閥。
2006年安倍内閣内閣府副大臣に就任。同年12月、事務所費架空計上問題で辞任した佐田玄一郎の後任の内閣府特命担当大臣(規制改革)に、副大臣から昇格して初入閣した。内閣府特命相に加え「国・地方行政改革」「公務員制度改革」「地域活性化」「道州制」を担当。在任中は国家公務員の再就職を一元的に管理する「人材バンク」や「中央省庁幹部の1割の公募制」導入を提唱。
2007年8月、安倍改造内閣で内閣府特命担当大臣(金融)に横滑りし、引き続き「国・地方行政改革」「公務員制度改革」を担当。同年9月発足の福田康夫内閣でも留任、翌2008年内閣改造時に退任。
2008年12月24日民主党提出の首相麻生太郎に対する衆議院の解散総選挙を要求する決議案与党議員でただ1人賛成し、自民党から戒告処分を受ける。その後も麻生内閣党執行部への批判を繰り返し、自民党離党の意向を表明〔渡辺・元行革相、自民離党の意向固める…後援会などで明言 読売新聞、2009-01-05閲覧。〕。
2009年1月9日国家公務員のワタリ斡旋に関する公開質問状を、事前のアポイントを取らずに首相官邸に持参するが、首相秘書官から公開質問状の受け取りを拒否された〔渡辺元行革相、官邸で門前払い…公開質問状も不発 読売新聞、渡辺元行革相が首相に公開質問状 首相秘書官が門前払い MSN産経ニュース(産経新聞)など〕。1月13日、自民党に離党届を提出、2月11日に「国民運動体」を発足させ、5月1日に団体名を「国民運動体 日本の夜明け」に改める。この組織を母体に、総選挙前の8月8日みんなの党を結党。無所属江田憲司に加え、自民党離党組の山内康一広津素子、民主党を離党した浅尾慶一郎が参加し、所属国会議員5名を集めて政党要件を満たした。
第45回衆議院議員総選挙にはみんなの党公認で栃木3区から出馬し、5選。当初、自民党は栃木3区に元法務大臣森山眞弓を擁立する方向で調整していたが、自民党栃木県連の反対により撤回。栃木3区は日本共産党も候補を擁立しない共産空白区となり、他に候補が立候補する気配を見せなかったため、戦後衆議院選挙初の無投票当選の可能性があったが、幸福実現党の斎藤克巳が立候補したため無投票当選とはならなかった。選挙結果は渡辺が142,482票・得票率95.3%で圧勝。渡辺の得票率は、小選挙区制導入後現在に至るまでの最高記録である。
2011年2月、第22回参議院議員通常選挙後初めて行われた党首討論において党首討論への参加を希望したが、渡辺が国家基本政策委員会の委員ではないことを理由に拒否された。同年4月11日に自民党から国家基本政策委員会委員ポストを借りる形で出席して、党首討論に参加した。
2014年に、後述の8億円借入問題が発生し、4月にみんなの党の代表の辞任を余儀なくされる。これを契機にみんなの党は離党者が相次ぐなど、内部対立が激しくなり、第47回衆議院議員総選挙を前に解党に至る。渡辺本人は無所属で出馬するも、落選した。
2015年3月、自身を支持する石崎英幸・市川市議会議員らが設立した地域政党「闘う改革の会千葉」の顧問に就任した〔みんなの党「残党」 “復活”模索も前途多難の様相 夕刊フジ2015年3月16日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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