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渡辺 士式(わたなべ ことのり、生年不詳 - 明暦3年5月1日(1657年6月12日))もしくは武林治庵は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。明の人で、後に日本に渡来・帰化して医業、薬業で浅野家に仕えた。通称は治庵。元の名は孟二寛である。 == 生涯 == 孟二寛の出生には三つの説がある。 一つ目は、彼の出自を慶長の役で全羅道の兵馬節度使李福男の息子李聖賢の明から派遣された従者とし、毛利家臣の手により捉えられ、日本に送られたというものである〔可児2006、98‐99頁〕。 二つ目は、浅野幸長とともに朝鮮に渡った亀田高綱が「府山」において明軍とたたかった際に生け捕りした「武林隆」(隆は「生」の上に「一」が付いた異体字)を孟二寛とするものである。彼はのちに幸長の弟采女正に仕えることとなり、武林唯右衛門を名乗る〔可児2006、101頁〕。 三つめは、二寛は単に寛永期に長門国にたどり着いた渡来人だったというものである〔可児2007、145頁〕。 孟は孟子の子孫であったとの記述もある〔可児2006、102頁〕。 その後、長門国で医者になったとの記録もあるが〔可児2006、102頁〕〔可児2007、145頁〕、二つ目の説に従うと、浅野家に医学をもって仕え、幸長の移封とともに広島に移り住んだと思われる〔可児2006、101頁〕。彼は故郷の杭州武林にちなみ、「武林治庵士式」と改名した〔可児2006、102頁〕〔可児2007、144頁〕。さらに日本人の渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の氏をとって「渡辺治庵」と名乗った時期があるとみられている〔可児2007、145頁〕。士式には先妻がいたが、彼女との子供は武林姓を、渡辺氏女との子供は渡辺の名字を名乗ったとみられる〔可児2007、145頁〕。子の渡辺式重は、のちに赤穂藩の家臣に転じている〔可児2007、145頁〕。 明暦3年(1657年)に死去。広島の国泰寺に葬られた〔可児2006、101-103頁〕〔可児2007、144-146頁〕。 なお、孫の武林隆重は赤穂浪士の一人となり〔可児2006、97頁〕、浪士の中で唯一辞世の句を漢詩で残している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺士式」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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