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渡邉 大吾(わたなべ だいご。1973年1月22日〔競輪打鐘読本、80頁。〕 - )は日本のラグビー選手。元競輪選手(日本競輪選手会愛知県支部所属〔)である。山梨県出身。天理高校、明治大学時代はラグビーのトップ選手として鳴らしたが、ラグビー選手としてのキャリアは大学で一旦途切れ、その後競輪界入りした。 なお、苗字の渡邉という表記は競輪選手時代のもので、ラグビー選手としては渡辺が一般的に用いられている〔競輪選手として登録される名称は原則的に戸籍上の名称となるため、渡邉という表記が正しいことになる。〕。 == 略歴 == === ラグビー選手(高校・大学)時代 === 天理高校時代は全国高等学校ラグビーフットボール大会において、フルバックとして1989年に優勝、1990年に準優勝を経験。また1990年には高校日本代表選手としてウェールズ遠征メンバーの一員に選ばれた。 渡邉によると高校卒業後に競輪選手になることも考えたが、最終的には大学へ進学しラグビーを続ける道を選んだ〔しかしその後も競輪選手になりたいという希望を抱き続け、大学在学時も密かに自転車を乗り込んでいたという〔競輪打鐘読本、81頁。〕。明治大学時代はウィング(後にフルバックも兼任)として1年生よりレギュラー選手として伝統の早明戦に出場した他、全国大学ラグビーフットボール選手権大会では1991年、1993年に優勝を経験。また、幾度か日本代表の候補にも上がったことがあった。当時の明治大学といえば、元木由記雄ら現役もしくは後の日本代表選手が多数いた時代であり、大学チーム相手にはほとんど負けたことがなかったばかりか、日本一の連覇街道を驀進中の神戸製鋼にも善戦できるほどのチーム力を持っていた。 当然、渡邉は卒業後、社会人の強豪チームへと進み、日本代表の中心選手としてラグビー界を背負って立つ選手と期待されていた。ところが、4年生となった1994年に、多くの社会人チームからの誘いを拒否し、競輪選手になることを決意。このことについては特に大学OBからの反対が強かった(渡邉によると、90年度主将の吉田義人は競輪転向に最後まで反対した〔)が、渡邉の意思は固く、ラグビー選手としての華々しいキャリアはここで途切れることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡邉大吾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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