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渡辺 智男(わたなべ とみお、1967年6月23日 - )は、高知県高岡郡佐川町出身の元プロ野球選手(投手)。 愛称は、「ナベトミ」。 == 経歴 == === プロ入り前 === 高知県高岡郡でイチゴなどを栽培する農家に生まれる〔週刊ベースボール、1989年9月18日号、P.117〕。中学校時代にヒジを剥離骨折し、投手にならないという条件で伊野商業高校に進学した〔週刊ベースボール、2003年8月25日号、P.24〕。しかし、2年の春になってから投手として練習するようになり、秋にはエースナンバーをもらった〔。県内の同学年の投手には高知商の中山裕章や明徳義塾高の山本誠がおり、球速は中山、制球力や変化球は山本の方が上だと感じたため、球持ちの良さや速球のキレに磨きをかけたという〔。 3年春に選抜高校野球大会に出場し、これが同校初の全国大会となった。渡辺自身を含めチームは1回戦突破を目標としていたが〔、抽選の結果、初戦の相手はチーム打率が4割を超す東海大浦安となった。しかし1回表に渡辺の本塁打で先制して流れをつかみ、5対1で勝利。これによってチームの緊張が解け、落ち着いてプレーできたという〔。準決勝では清原和博、桑田真澄らを擁するPL学園と対戦。伊野商が初出場だった事もあり、下馬評では圧倒的有利だったPL側は投手対策を特に立てておらず〔、渡辺が清原を3三振に封じ込めるなどわずか1失点の好投で勝利した。決勝の対帝京戦では自ら本塁打を放ち〔asahi.com 選抜決勝記録 〕、小林昭則との投げ合いを13奪三振の完封で制して優勝した。 3年夏の高知県大会は決勝で高知商に敗れ、卒業後は社会人野球のNTT四国に進んだ。在籍した3年間、チームは毎年都市対抗に出場し、の大会では初戦で勝利投手となっている。また同年はソウル五輪代表にも選ばれたが、直前の7月にエースとして〔週刊ベースボール、1989年5月22日号、P.25〕参加したIBAFワールドカップで右ひじを故障した〔週刊ベースボール、1989年4月10日号、P.51〕。この怪我などを理由にドラフト会議を前にプロ入り拒否を打ち出した。これに対し西武がドラフト1位で強行指名したため、NTT四国の西田優監督が激怒したという〔週刊ベースボール、1989年1月16日号、P.26〕。もっとも、ドラフト指名の約1ヶ月前の10月29日に日大板橋病院で渡辺の右ヒジ遊離軟骨除去手術を担当したのが西武のチームドクターだったため、この指名に関しては密約説もささやかれていた〔。球団側は同じ手術を経験した森繁和二軍投手コーチの直接指導、専属トレーナーの付与などを約束し〔、最終的には同じくプロ入り拒否を打ち出していた2位指名の石井丈裕とともに入団を決めている。なお契約金と年俸はそれぞれ石井と同額の7,000万円、840万円(いずれも推定)となった〔。なお、背番号は同年で引退した東尾修の21を受け継いでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺智男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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