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渡部 絵美(わたなべ えみ、本名:渡部・キャスリン・絵美、1959年8月27日 - )は、1970年代に活躍した日本の元フィギュアスケート選手(女子シングル)、タレント、プロスケーター。現在はタレント兼プロスケーター。エミ・エンタープライズ所属。1979年世界選手権3位。1980年レークプラシッドオリンピックでは6位入賞を果たす。1972年から全日本選手権8連覇。東京都出身〔渡部絵美、サッチー批判で番組降板、『サンケイスポーツ』1999年4月24日付〕。専修大学卒業〔。公認候補者として所属した自由連合では政策審議会副会長を務めた。 == 人物 == 1959年8月27日、日本人の父純一と、スペイン系フィリピン人の母リディアとの間に二男二女の末子として世田谷区にて生まれる。両親は父が海軍中尉として太平洋戦争でフィリピンへ出征した際にネグロス島の地主の娘である母と出会った。その後戦時中に結婚して戦後来日した。母の影響で一家そろって敬虔・厳格なローマ・カトリック信徒。父は2005年7月、心不全のため85歳でフィリピン・ネグロス島にて他界〔渡部純一氏死去 渡部絵美さんの父 2005/07/30 共同通信 〕。 幼少時に渡米し、ゴールデンバレー高校卒業〔朝日新聞 1979年12月25日 (19)〕後に上智大学国際学部に入学。その後、1979年にスケート界の名門でもある専修大学に移籍。ウィーンで開かれた1979年世界選手権で3位となり、一躍“時の人”となった〔週刊現代 2012年5月5・12日号 p. 208 人生の相棒 第121回〕。1980年生まれの女児につけられた名前で一番多かったのは彼女にあやかった『絵美』だった〔陽子、愛、美咲… 名前で分かる女性の生まれ年 日本経済新聞、2011/6/10〕。 幼少時から渡米し英語を主体とした生活を送っていたために日本語がぎこちなかったが、当時の日本人女性選手の殆どが強張った表情で演技していたのと違い、渡部は出来の良し悪しに関わらず『絵美スマイル』と呼ばれる満面の笑みで演技し、人気を博した。現役時代は、スケーティングの質が似ていたことと愛らしい笑顔とで『和製ジャネット・リン』と呼ばれた〔。現役引退後は、インストラクターとして小中学生を対象としたスケート教室等を開催しており、バラエティ番組等にも出演した。 2005年1月、堤義明によるセクシャル・ハラスメントがあったことを週刊誌上で発言〔週刊文春 - 渡部絵美衝撃告白 私を弄んだ堤義明 〕。永年日本のウィンター・スポーツの運営をほぼ独占してきた堤が渡部に立腹、渡部がリンクのロッカーすら使えないようにするなどのパワー・ハラスメントがあったと主張した。 西武鉄道アイスホッケー部OBと結婚・息子一人を授かったが、相手の事業失敗が原因で離婚。絵美は当時、「カトリック信者の母は(絵美の)離婚に相当落胆し、再婚もしてほしくない(離婚・再婚はカトリックでは歓迎されない傾向が強い)とボヤいていた。」と語っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡部絵美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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