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湯上谷宏 : ウィキペディア日本語版
湯上谷ひろ志[ゆがみだに ひろし]

湯上谷 竑志(ゆがみだに ひろし、本名:湯上谷 宏〔『'86プロ野球選手写真名鑑』、日刊スポーツ出版社、1986年4月、P126。〕(読み同じ)、1966年5月3日〔 - )は、富山県出身の元プロ野球選手内野手外野手)〔。愛称はガメガメやん
== 来歴・人物 ==
星稜高校では甲子園に4回出場。1年生の夏の選手権は控え選手、2回戦(初戦)で早稲田実荒木大輔に抑えられ大敗〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。2年生から遊撃手のレギュラーとなる。春の選抜では、1回戦で井上真二らのいた熊本工を降すが、2回戦で横浜商三浦将明に完封を喫する〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。翌春の選抜も1回戦で佐世保実のエース吉田直喜に完封負け〔。同年夏の選手権でも1回戦で別府商に9回サヨナラ負け〔。1年下のチームメートに三塁手鈴木望がいた。
ドラフト2位で南海ホークスに入団〔。背番号は入団時14、は7、以降は6。俊足を生かした広い守備範囲が特徴で、内外野どのポジションでもこなせるユーティリティプレイヤーだった(二塁648試合、遊撃230試合、三塁175試合、一塁2試合、外野54試合)。入団後数年はスイッチヒッターだった。オフには南海球団は「来季から湯上谷、立浪のフレッシュ二遊間で売り出す」と球団を挙げて公言するなど、当時PL学園高校の主将であった立浪和義の獲得と湯上谷・立浪の若手コンビによる二遊間形成を目論んだが、結局立浪は同年のドラフト中日ドラゴンズにさらわれた形となり、この構想は幻に終わった〔『負けん気』立浪和義、文芸社、14‐18頁(2010年2月、ISBN 978-4286088532/増補版、文芸社文庫、2014年2月、ISBN 978-4286148939)〕。1989年は前年秋季キャンプ中の右脛骨の骨折、その手術・リハビリが長引き一軍不出場に終わったが、復帰したからは3年連続で全試合出場を果たす。から登録名を「湯上谷 竑志」としている。に現役引退
1990年頃から藤本博史小川史森脇浩司との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることがたびたびあった。
引退を決めたのは日本シリーズの後である。日本シリーズ第5戦で怪我をした小久保裕紀に代わり第6戦でサードを守っていたが、巨人の清原和博が打ったサードゴロを一塁手の遥か上にいく悪送球をしたことから、自分のプレーが出来なくなったと引退会見で理由を語った。
現役引退後はフロント入りし、営業を担当。一時福岡ドーム企画営業部に出向し、「元ダイエー・湯上谷がプランニングした観戦ツアー」なるパッケージツアーが企画・販売されたこともあった。からまでソフトバンク育成担当コーチ。
は再びフロントに戻り、野球振興部課長代理を経て、企画室ディレクターを務めた。からはソフトバンク一軍内野守備走塁コーチ補佐に就任し、は一軍内野守備走塁コーチ、は二軍内野守備走塁コーチを務めた。からは西戸崎合宿所の寮長を務める。11月7日退団〔退団について 福岡ソフトバンクホークス公式サイト2013年11月7日配信〕。
退団後の2014年にはアメリカサンディエゴへ語学留学することが報じられた〔元タカ戦士、48歳の挑戦 湯上谷さん、米に語学留学へ 2014年5月5日西日本新聞朝刊〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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