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湯川町(ゆのかわちょう)は、かつて北海道亀田郡にあった町。1939年(昭和14年)、函館市に編入された。現在の函館市役所湯川支所管内にあたる。 == 概要 == 松倉川水系の流域と汐泊川水系の上流の流域に当たる地域。中心部は松倉川下流に位置し、海底火山銭亀火山由来と推定されている湯の川温泉がある。この温泉は元々治療用に細々と使われていた。1863年(文久3年)に100℃近い高温の湯が出て、温泉宿があった時期もある。 村の成立時期は不明であるが、文明年間(1469年ー1486年)に南部より農民の浜道安兵衛と漁民の小林権兵衛が移住したといい、その後1654年(承応3年)に改築された湯倉神社の薬師堂の付近の集落を湯川村といった。村名の由来は明治時代の教育者、永田方正が北海道蝦夷語地名解(永田地名解)にてアイヌ語由来の地名でユ・ペツ(湯の・川)が語源と紹介している。主に下北半島より渡ってきた漁師が次第に定着し、昆布と鰯(いわし)などの漁業とその合間に薪や炭を作っていた。のちに松倉川を挟んで個別に集落ができた経緯から西岸を下湯川村、東岸を上湯川村と分村した。分村時期は不明であるが函館市史通説では1875年(天明5年)3月の「蝦夷拾遺(勘定奉行の松平秀持が青島俊蔵、佐藤行信らに蝦夷地調査を命じた。その調査記録)」には上下湯川村が記載されていることからその頃と考えられている(明治時代に合併して上下分村で無くなっている)。 暖流の対馬海流(津軽暖流)の影響を受け比較的温暖な気候であり降雪は少ない。 明治時代、函館区からの交通は大森浜の砂地の細道をたどるか鍛冶村を通り松倉川の支流鮫川に架かる鮫川橋に至るルートがあったが、1887年(明治20年)、亀田村から鮫川橋に向かう道路が開通し、その後この道路の悪路対策で馬車鉄道、函館市電の前身となる函館馬車鉄道が敷設され利便性が高まった。 函館市への編入合併理由は飲料水確保の問題解決などである。松倉川は当時上流に鉱山があり、鮫川は流量が少ないから水源を確保できない問題があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯川町」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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