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山本正美 (日本共産党)[やまもと まさみ] 山本 正美(やまもと まさみ、1906年9月28日 - 1994年9月19日)は日本の社会運動家。コミンテルンで決定された『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ』(通称、32年テーゼ)の作成に実質的に関与した唯一の日本人で、一時期日本共産党の中央委員長を務めたが、戦後除名された。 == 経歴・人物 == 高知県出身。1927年モスクワの東方勤労者共産大学(クートベ)に留学、プロフィンテルンやコミンテルンで活動。コミンテルン東洋部において、32年テーゼの基礎資料作成・分析である種の役割を果たし、テーゼ作成に実質的に関与した唯一の日本人であった。ソ連滞在中「アキ」の名で論説を書き、その能力のためにコミンテルン内で相当高い評価を受け、日本問題についての欠かせない要員になっていたとみられている〔書評と紹介 刊行委員会編監『山本正美治安維持法裁判――続/山本正美陳述集 裁判関係記録・論文集』評者:伊藤晃 『大原社会問題研究所雑誌』No.572、2006年7月、P.69〕〔加藤哲郎『山本正美裁判関係記録・論文集──真説「三十二年テーゼ」前後』刊行に寄せて 〕。 1932年末に帰国、このテーゼに基づいて壊滅状態の日本共産党を再建する責任者となり、中央委員長を務めた(''リンチ共産党#経緯も参照'')が、1933年春に検挙、投獄された。1936年-1937年、公判に付され法廷で長大な陳述を行った。 戦後は「湯本正夫」の名で評論活動などに携わっていたが〔川上武・加藤哲郎共著『人間 国崎定洞』勁草書房、1995年、第20章 〕、1961年同党を除名され、のちに統一労働者党の結成に参加した〔山本正美 やまもと-まさみ デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本正美 (日本共産党)」の詳細全文を読む
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