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湯村輝彦 : ウィキペディア日本語版
湯村輝彦[ゆむら てるひこ]

湯村 輝彦(ゆむら てるひこ、1942年11月1日 - )は、イラストレーターデザイナー漫画家、音楽評論家。ヘタウマなイラストと、スウィート・ソウルなどのR&Bや、Gラップのフリークとしても知られる日本グラフィック界のベテランである。東京都新宿区角筈(現在の西新宿)生まれ。ペンネームはTerry Johnson(テリー・ジョンスン)、ゴンゾ。また、かつては、「FLAMINGO TERRY」、「FRAMINA TERRENO GONZO」、「TERRINO FLAMINI' GONZAREZ」、「紅鶴照万太」などのペンネームも用いていた。愛称は「キング・テリー」(略して、「キンテリ」とも)。
「フラミンゴ・スタジオ」主宰。イラストレーターの湯村タラは妻で、おしどり夫婦として知られる。また、長男もRICKY名義でイラストレイター、デザイナーとしての活動を行っている。
==人物・経歴==
父親は明治座の支配人で、そのため、幼稚園から中学2年まで、月に1回は歌舞伎を見にいったという。裕福であったため、少年漫画雑誌はすべて購読。なかでも杉浦茂の大ファンで、単行本をコンプリートしていという。また、一人っ子で甘やかされ、病弱な少年だったという。
中学3年の時に、父親が倒れ、それからは新聞配達のアルバイトなどをし、家計を助けた。だが、高校時代は不良となり、「銀流し(馬鹿だんなのこと)の輝さん」と新宿の人々から呼ばれたという。
その後も感情の起伏が激しい時代が続くが、現在の妻のタラ(湯村が32歳の時に出会い、1977年の35歳の時に結婚。なお、湯村は20代の時に1度結婚し、別れている。)と出会ってから、穏やかな性格になったという。
青山学院中等部から、同高等部に進み1961年卒業。多摩美術大学を受験するが失敗し、YMCA英語学校にて浪人生活をする。翌年、多摩美術大学平面図案科(現在のグラフィック・デザイン科)入学。山名文夫に師事する。
1966年春、卒業制作課題違反連続のため、卒業が秋まで延期される。だが、この卒業制作のひとつが「アイデア」誌の優秀作品に選ばれる。在学中から、同大学の先輩、和田誠を尊敬していた。また、中学、高校、大学を通じての先輩にあたるのが原田治だった。
卒業後、デザイン事務所につとめるが、3か月で通勤が嫌になり、会社に願い出て嘱託勤務となり、自宅で仕事をするようになる。
最初のイラストレーションの仕事は『週刊女性自身』のコラムのカットであった。やがて、三菱石油のためのイラストレーションがメインの仕事となる。この仕事で、1968年度東京イラストレーターズ・クラブ新人賞を受賞。嘱託だった会社からも完全に独立し、専業のイラストレーターとなる。
受賞記念パーティで矢吹申彦を知り、意気投合してY2というチームを作る。その後、河村要助も参加し、「100パーセント・スタジオ」と改名する。
このころ、グラフィック・デザイナーの舟橋全二と知り合う。当時は「ブッシュ・ビン・スタジオ」の全盛期であり、大きな刺激を受ける。また、アート・ディレクター江島任を知り、またも刺激を受ける。
不二家ペコちゃんポコちゃんの「ビビ・ビビ」というチョコレートの仕事をする。また、「男の雑誌 NOW」(文化出版局)で、イラストレーションや漫画を描く等する。
1972年に、「100パーセント・スタジオ」を解散。1974年、河村要助原田治佐藤憲吉大西重成と「ホームラン」というイラストレーター・チームを結成。ニュース・ペーパー「ホームラン」を創刊する。しかし数か月でこのチームは分解する。
1975年、自身のスタジオで現在まで続く、「ORIGINAL FLAMINGO STUDIO」を創設。メンバーは、イラストレーターのペンギンジョーこと永井博、アート・ディレクターの秋山政美、カメラマンの吉岡英隆、コピーライターの糸井重里等であった。
1976年、糸井とともに制作した、ウェルジンの広告でADC賞を受賞する。このころは、マイナーな仕事を多数こなしていた。また糸井と共作の絵本『さよならペンギン』(すばる書房)を刊行する。
同年、「NOW」での湯村の漫画作品を読んでいた漫画雑誌『ガロ』の編集者である南伸坊から、漫画執筆を依頼される。湯村は、糸井重里の原作で「ペンギンごはん」という作品を発表。かわいいペンギンが登場するが、ストーリーは陰惨な内容というパンクな作品であった。以降も『ガロ』に「ペンギンごはん」シリーズ作品を発表し(1977年は『ガロ』の表紙も1年間担当した)、1980年に『情熱のペンギンごはん』として刊行。ヘタウマ漫画の金字塔となり、1980年代におきるヘタウマブームの先駆となる。
1977年資生堂より、"KENZO SHOW IN TOKYO"の仕事が入る。以後メジャーな仕事がふえる。
以降、広告のイラスト、雑誌や書籍やレコードやCDのカバー絵、雑誌のイラスト、絵本などを手がけ、その個性的な、エロで生々しい匂いを放つ絵柄で、現在も精力的に活動を続けている。
イラスト界の大御所でありながら、現在も大企業等のメジャーな仕事から、小部数の雑誌等のマイナーな仕事まで、非常に幅広くてがけている。近年では、クレイジーケンバンドのCDのジャケット・ワークを手がけていることで知られる。
また、現在は「フラミンゴ・スタジオ」は主にデザインをやっており、「デザイン事務所の社長」でもある。
また、スウィートなソウル・ミュージックやギャングスタ・ラップのマニアであることから、『湯村輝彦ヒットパレード』『甘茶ソウル百科事典』『ギャングスタ・ラヴ』という音楽本も刊行している。27歳からをわずらっており、痔についての本も刊行。またハゲについての絵本も刊行している。
また、猫好きでもあり、愛猫5匹との日常を綴ったほのぼのエッセー「テリーのネコメロ」を「アックス」誌に連載中(2008年初め現在)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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