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満蒙問題(まんもうもんだい)とは、日露戦争後の、満州、内蒙古地方における日本の特殊権益擁護を巡る諸問題のこと。 == 概要 == 1904年(明治37年、光緖29年)から1905年にかけて起こった日露戦争は、ロシア(当時はロシア帝国)の南下政策にともなう日露の朝鮮半島に対する権益権行使の問題に端を発した。日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約で長春以南の鉄道と付属の利権などを手にし、満蒙への足がかりをつくった。以後、日本はロシアとのあいだで4次にわたる日露協約を締結し、満州・内蒙古の互いの勢力範囲を定めた。また、清国も1905年の満州善後条約や1909年の満州協約でこれを認めた。しかし、1912年に成立した中華民国は、1920年代に入ると国権回復運動を推進し、日本と激しく対立することとなった。 1928年(昭和3年、民国17年)当時、日本における満蒙問題を軸とした対中国政策には、次の4つのスタンスがあった〔川田(2010)pp.4-7および川田(2010)pp.140-142〕。 #田中義一(立憲政友会)内閣総理大臣らの「満蒙特殊地域論」…長城(万里の長城)以南の中国本土は国民政府(蒋介石政権)の統治を容認するが、長城外の満蒙については日本影響下の張作霖ら奉天軍閥の勢力を温存することによって特殊権益を保持しようとする立場。 #浜口雄幸ら野党の立憲民政党による協調外交…国民政府によって満蒙をふくめた全中国が統一されることを基本的に容認し、国民政府との友好関係を確立することによって中国との経済交流の拡大を実現しようという立場。 #関東軍の「満州分離方針」…日本の実権掌握下における新政権の樹立を企図する立場。しかし、これは中華民国の主権が存続することを前提としたもので、鉄道問題や商租権問題など従前からの外交事案解決を主な動機としていた。 #日本陸軍中央(木曜会(ついで一夕会)および参謀本部第一部)の「満蒙領有方針」…満蒙問題の解決のみならず、対ソビエト連邦戦争をはじめとする国家総力戦対応の要請から、満蒙の実質的領有をめざす立場。中国の主権はまったく否定される〔参謀本部第一部(荒木貞夫部長)の小畑敏四郎作戦課長は、一夕会の前身である二葉会には参加していたが木曜会には参加していなかった。しかし、小畑と陸軍士官学校の同期であり、ともに「バーデン=バーデンの密約」に加わった永田鉄山・岡村寧次は木曜会に参加しており、永田・岡村・小畑の関係を通して、参謀本部第一部と木曜会とのあいだには何らかの連携があったと考えられている。川田(2010)p.142〕。 1931年(昭和6年、民国20年)9月の柳条湖事件よりはじまる満州事変は、一般に、1929年よりはじまった世界恐慌の甚大な影響を受けて日本が陥った1930年代初頭の経済的苦境(昭和恐慌)や農村の疲弊(農業恐慌)を打開するため、石原莞爾や板垣征四郎ら関東軍によって計画・実行されたものとの見方が多い〔川田(2010)p.8〕。しかし、実際には世界恐慌に先だって、満州事変につながる満蒙領有方針がすでに打ち出されていたのである〔川田(2010)pp.8-9〕。世界恐慌は満州事変を計画した軍人たちにとっては、かねてからの方針を実行にうつす好機となった〔川田(2010)p.9〕。 結局は、上記のうちの4.が選択されたことになり、清朝を樹立した満州族の出身地域でありながら「化外(華外)の地」「無主の地」とされてきた満蒙に、1932年(昭和7年、民国21年)、満州国が樹立された。日本の敗戦によって1945年(昭和20年、民国34年)に満州国は崩壊し、中華民国への帰属が日本も含めた国際社会全体に認知されたのは第二次世界大戦終結後である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「満蒙問題」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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