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満鉄調査部事件(まんてつちょうさぶじけん)は、第二次世界大戦中、多数の南満州鉄道調査部員が関東軍の憲兵隊によって2回にわたり検挙された事件。満鉄事件とも呼ばれる。1941年に起こった合作社事件をきっかけとして、1942年には調査部員の第一次検挙、1943年には第二次検挙が行われた。 == 経緯 == ===合作社事件=== 満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った大学卒業以上の学歴を持つ左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは、内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。 橘樸の影響を受けていた『満州評論』編集長で興農合作社中央会職員の佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を農事合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。満州国協和会中央本部実践科主任・平賀貞夫らの逮捕からこの運動は日本人「前歴者」が結集したことで関東憲兵隊(関東軍司令官隷下の軍令憲兵。憲兵司令官指揮下ではない)に目をつけられ、共産主義運動の嫌疑で佐藤のほか協和会の鈴木小兵衛、満鉄調査部の花房森・佐藤晴生など50名余の運動関係者が検挙された(合作社事件、1941年11月)。 なお、2008年10月、関東憲兵隊特別高等課の下士官が保管していた合作社事件の調書や起訴状など満州国最高検察庁の捜査記録が発見された。これらを松村高夫慶應義塾大学名誉教授、江田憲治京都大学教授らが解析した結果、組織や運動の存在は関東憲兵隊によるでっち上げだったらしいことが判明している 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「満鉄調査部事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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