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白川仲資王[しらかわ なかすけおう] 白川仲資王(しらかわ・なかすけおう、保元2年(1157年) - 貞応元年(1222年))は平安時代後期から鎌倉時代初期の公卿。官位は正三位兵部卿。神祇伯。本姓は源氏。家系は花山天皇を祖とする花山源氏の嫡流の家柄。人臣でありながら王氏を任ずべき神祇伯を家職としていたため、任伯している間に限り、源姓を離れ王号を名乗る格式を保持していた。子に業資王と資宗王がいる〔野島寿三郎編『公卿人名大事典』(日外アソシエーツ、1994年) 382頁参照。〕。 == 生涯 == 神祇伯顕広王と右少弁藤原能忠の女の次男として生まれる。初名は顕順で永暦2年(1161年)に従五位下の位階に叙爵し、仲資に改名する。承安3年(1173年)に従五位上に進み、安元2年(1176年)に神祇伯となる。治承3年(1179年)、播磨権守となる。養和元年(1181年)、正五位下、寿永元年(1182年)、従四位下を経て従四位上に進む。元暦元年(1184年)、正四位下、建久元年(1190年)、従三位となり公卿に列する。同9年(1198年)、神祇伯を辞す。正治2年(1199年)、太皇太后宮権大夫に任ぜられ、翌年に辞する。元久2年(1205年)、正三位となり、承元元年(1207年)、兵部卿に任ぜられ、同年、出家した〔。 代々、神祇伯を家職としたため白川伯王家といわれたが、白川を家号とした時代や時期については、仲資王の祖父 顕康王のときとも〔、曾孫の資邦王のときともいわれ、定かでない〔岡野友彦著『源氏と日本国王』(講談社、2003年) 88頁、89頁参照。〕。
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