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源信義 : ウィキペディア日本語版
武田信義[たけだ のぶよし]

武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主である。
== 生涯 ==

大治3年(1128年8月15日新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140年)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。
治承4年(1180年4月以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結させて挙兵し甲斐国の実権を握る(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。ついで信濃国に侵攻し諏訪に進出する。その後、駿河国に進出して駿河目代橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。
その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。そのような中、甲斐源氏の中に分裂が見られ、弟の加賀美遠光とその次男・小笠原長清、信義の子・石和信光は頼朝に接近し安田義定は平家を打ち破って都に進撃する義仲とともに東海道から都に上洛し、その功により「遠江守」の官位を手中にする。やがて源義仲と頼朝が対立関係となると、信義や甲斐源氏は頼朝と協調路線を選択し、その後も武田軍は源範頼源義経と共に義仲の追討・一ノ谷の戦い・平家追討山陽道遠征・壇ノ浦の戦いに参加した。
だが、それと同時期に甲斐源氏は自分と同格の武家の棟梁の存在を排除もしくは屈服させるという頼朝の路線の障害となる存在となってしまう。養和元年(1181年)には、後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は駿河守護を解任されたうえ鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かされている。元暦元年(1184年6月16日、子の一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で暗殺された。その一条忠頼殺害の前後に木曽義高残党討伐という名目で頼朝は甲斐信濃に出兵している。また土肥実平より上位にあるという書状を送った子の板垣兼信に対して頼朝が実平優位を示す返書を出すということもあった。その一方で親頼朝派の加賀美遠光に対しては「信濃守」任官を朝廷に申請するなど厚遇した。このように、親和策と弾圧をそれぞれの一族が個別に受けた結果、挙兵時頼朝や義仲と同格の武家棟梁であった甲斐源氏は鎌倉殿御家人という扱いへと転じていくことになる。
『吾妻鏡』によると文治2年(1186年3月9日、享年59で病没したとあるが、建久元年(1190年)の頼朝上洛の隋兵に武田信義の名があったり、建久5年(1194年)の東大寺造営や小笠懸の射手に信義の名が見られることから、文治2年(1186年)以降も信義が生存している可能性が濃厚であるとの指摘もある〔五味文彦本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)第1巻 五味氏序文〕。
家督は五男の信光が継いだ。墓は山梨県韮崎市神山町鍋山の願成寺にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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