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兼明親王(かねあきらしんのう)は平安時代中期の公卿、皇族。 醍醐天皇の第十六皇子。朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟にあたる。一時期臣籍降下して源 兼明(みなもと の かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し中務卿となったことから中書王(ちゅうしょおう)あるいは前中書王(さきの ちゅうしょおう)と呼ばれる。「後中書王」と呼ばれた甥の具平親王と共に並び称される博学多才の主で、藤原佐理・藤原行成と共に三蹟の一人に数えられる場合もある。 == 来歴 == 承平2年(932年)、源姓を賜り臣籍降下、従四位上に初叙される。その後播磨権守・右近衛中将・左近衛中将などを経て、天慶7年(944年)参議。その後も順調に累進し、権中納言、中納言、大納言を歴任して従二位に至る。天禄2年(971年)には左大臣となったが、貞元2年(977年)勅により57年ぶりに皇籍に入って親王に復し、名誉職の二品中務卿に転じる。寛和2年(986年)にはその中務卿も辞し、その後は嵯峨に隠棲した。 『江談抄』『本朝文粋』に詩文を残す。『古今和歌六帖』の撰者と考えられている。 寛和2年(986年)、嵯峨野の亀山に山荘(雄倉殿)造営の際清泉が無いのを嘆き、亀山の神に祈って霊泉を得られたことが『本朝文粋』に記されている。後に亀山には後嵯峨上皇が仙洞亀山殿を造営した。 親王の別称に御子左大臣・御子左があるが、これは「醍醐天皇の皇子(御子)である左大臣と」いう意味。後世、親王の邸宅に藤原長家(御子左大納言)が住したため家号となり御子左家となった。 兼明が皇族に復帰させられたのは、藤原兼通・兼家兄弟の争いに関係している。兼通は弟の兼家に一時期廟堂の席次を先んじられたことを深く恨みに思い、自らが関白内大臣になった際、兼家を大納言に据えおき、従兄弟にあたる藤原頼忠を相談相手とした。そして頼忠を左大臣に引き上げるため、当時その座にあった兼明がとばっちりを受けたのである。折しも円融天皇は異母兄・源昭平の皇籍復帰を願っていたことから、この2件を抱き合わせで行うことを条件にこの除目を認めたという。これに憤慨した兼明親王は、後に『本朝文粋』に収録された詩「莵裘賦」の中で、「君昏くして臣諛ふ」と円融天皇や兼通・頼忠を痛烈に非難している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「兼明親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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