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源政長[みなもと の まさなが]
源 政長(みなもと の まさなが)は平安時代中期から後期にかけての貴族・雅楽家。 == 経歴 == 長暦2年(1038年)に参議・源資通の三男として生まれた。後冷泉天皇の即位後まもなく昇殿を聴され、近衛少将に任ぜられる。康平6年(1063年)ころ、備中守となる。延久5年(1073年)2月、後三条天皇の四天王寺・住吉神社行幸の折に笙を吹くが、その当時の官は民部権大輔であった〔『栄華物語』松の下枝〕。 承暦4年(1080年)ころに若狭守に任ぜられるが、遙任であったとみられる〔『水左記』承暦4年3月15日条。〕。寛治2年(1088年)のころには刑部卿となり、この堀河天皇の御代には侍読となって天皇に笛を教授した。その後、内蔵頭に任ぜられ、備中守を兼ねた。 永長2年(1097年)閏1月4日に卒去。享年60。最終官位は正四位下行内蔵頭兼備中守。烏丸姉小路にあった邸宅は死後高階能遠のもとに渡ったが、康和4年(1102年)に焼亡している〔『中右記』康和4年9月4日条。〕。なお、この他に八条に水閣をもっていたらしい。 宇多源氏の神楽・郢曲を父・資通より学んで笛や和琴、琵琶に通じ、それを子の有賢や刑部卿・藤原敦兼らに伝えた。多くの儀式行事で笛を担当。『続教訓抄』では「左右なき管弦者」と称された。堀河天皇にもこれを教え、常に天皇の傍にいるようであったという〔。琵琶においても、承暦年間に「琵琶の明匠」として、源経信や藤原宗俊らとともに召されている。さらに同じ頃、白河天皇中宮賢子の大原野行啓の試楽において太鼓をうったが、一拍子も誤らなかったという〔『続古事談』。〕。また、和歌や蹴鞠もよくしたらしい〔『尊卑分脈』。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源政長」の詳細全文を読む
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