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源 時中(みなもと の ときなか)は平安時代中期の公卿。左大臣・源雅信の長男。致仕大納言と号す。 == 経歴 == 天暦11年(957年)村上天皇の時代に昇殿を許され、天徳2年(958年)右衛門尉に任ぜられる。 右近将監を経て、天徳5年(961年)従五位下に叙爵。応和2年(962年)讃岐権介、侍従を務め、康和3年(966年)右兵衛佐に任ず。康保4年(967年)守平親王(のちの円融天皇)の立太子に伴って春宮昇殿となり、左近衛少将に任ぜられる。安和元年(968年)従五位上・備後権介に叙任、安和2年(969年)右近衛少将に任ぜられる。 天禄3年(972年)正五位下、天禄4年(973年)従四位下・備前権守に叙任されて右近衛中将も兼任。讃岐権守、備後権守、播磨権守を歴任し、貞元3年(978年)内蔵頭として京官に就く。天元2年(979年)従四位上、天元6年(983年)美作守となる。永観2年(984年)懐仁親王(のちの一条天皇)の春宮昇殿に任ぜられる。寛和2年(986年)大蔵卿。6月に寛和の変が起こり、花山天皇が退位。懐仁親王が即位すると昇殿となり、藤原詮子の皇太后宮権大夫を務める。同年正三位・参議に任ぜられ公卿に列し、永延元年(987年)左兵衛督を兼任する。 永延2年(988年)美濃権守に任ぜられる。正暦2年(991年)に藤原詮子の出家に伴い権大夫を辞し、右兵衛督に転じる。 長徳元年(995年)中納言になり、長徳2年(996年)大納言となる。長徳3年(997年)7月5日の任大臣の儀に参会して、同日に按察使に任ぜられる〔『権記』長徳3年7月5日条〕。長保元年11月(1000年1月)賀茂臨時祭試樂に奉仕する〔『小右記』長保元年11月28日条〕。長保2年(1000年)従二位、藤原彰子の中宮大夫に叙任されるが、長保3年(1001年)に官職を辞任した。 長保3年12月30日(1002年1月16日)病により出家。即日(または翌日)薨去。享年59。絃管・歌舞に秀でたといい、龍笛、和琴、郢曲などをしたという〔『尊卑分脈』宇多源氏〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源時中」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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