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源護 : ウィキペディア日本語版
源護[みなもと の まもる]
源 護(みなもと の まもる、生没年不詳)は、平安時代中期の武将常陸大掾。素性は不明だが、一般的には一字名から武蔵権介の源宛(箕田宛)と同族の嵯峨源氏と推測されている〔同時に『将門記』以外の資料には記載はないが、必ずしも架空の人物と断定されてはいない。素性は不明だが、一字名であることから、前述の嵯峨源氏あるいは仁明源氏とも推測されている。〕。子に(たかし)・(しげる)ら〔『将門記』には他に「裏」とあり、護の第四子または弟ともされるが、この前後に欠文が多く人名であるかも疑問視されており、詳細は不明とされる。〕、娘は高望王の子、平国香平良兼平良正らに嫁いでいる。
== 概説 ==
常陸国筑波山西麓に広大な私営田を有する勢力を持っていたといわれ、真壁を本拠にしていたと伝わる。この領地と接していた平真樹と境界線をめぐり度々争っていた。真樹はこの争いの調停を平将門に頼み将門はこれを受ける。一説によるとこの調停の為に常陸に向かっていた将門を息子の扶らが野本にて待ち伏せて襲撃したと言われている。また、『将門記』にある「女論」が襲撃の要因ともされ、詳しい経緯はわかっていない。いずれにせよ、この戦いが平将門の乱の中の最初の合戦であり始まりであるといえる。
承平5年(935年)2月、将門との戦いで息子の扶・隆・繁は敗死、護の本拠はすっかり焼き払われ、その際国香は焼死したとされる。護は常々息子達の死を嘆いていたが、娘婿の良正が将門を討つ為に兵を集め戦の準備を始めると、その勝敗の帰趨もわからないうちから非常に喜んだ。しかし良正は敗れ、後に良兼と国香の子・貞盛も加わり再び戦うがここでも敗れてしまう。承平6年(936年)、護は朝廷に将門と真樹についての告状を提出し、朝廷はこれにもとづいて将門らに召喚の官符を発したが、承平7年(937年)4月7日の朱雀天皇元服大赦によって結局は全ての罪を赦されてしまった。その後「将門記」にも名は登場せず動向は不明だが、ほどなく病死したと考えられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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