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源雅定[みなもと の まささだ]
源 雅定(みなもと の まささだ)は平安時代後期の公卿、歌人。中院右大臣と号す。右大臣、正二位、左近衛大将。 源雅実の次男。 == 人物 ==
* 素直でよく気が付き、堅苦しい所もなく魅力的な性格であった〔『今鏡』293段。〕。また、学才もあり、朝廷の儀式にも通じていたとされる〔『今鏡』291段、『台記』久寿元年(1154年)5月27日・28日条、『続教訓抄』、『体源抄』。〕。 * 幼時より舞楽に長じ、康和3年(1101年)3月9日の白河院50歳の賀の試楽における童舞で、9歳にして『胡飲酒』を舞い、賞賛された〔『今鏡』65段、『中右記』康和3年3月9日条。〕。父・雅実は雅定の舞の技能に自信を持っていたためか、嘉承元年(1106年)に開催された石清水臨時祭における一の舞に雅定が選ばれなかったことに腹を立て、途中で帰京してしまったとの逸話がある〔『今鏡』285段、『中右記』嘉承元年3月15日条。〕。また、『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が山村政連に殺害された際、『胡飲酒』を伝受していた雅実が資忠の子の忠方に伝えた逸話〔『古事談』『続古事談』『古今著聞集』『教訓抄』『体源抄』『雑秘別録』等による。〕があるが、雅実が死去してからは、忠方は雅定を師としていたとされる〔『中右記』長承元年(1132年)3月23日条。〕。 * 豊原時元から伝授を受けた笙にも秀で、嘉応2年(1170年)までに開催された御遊において、各種記録に記された笙の演奏回数が2位の藤原宗忠を大きく引き離して最多となっている〔竹鼻績『今鏡(下)』講談社学術文庫、1984年。〕。 * 歌人としては藤原顕輔・源俊頼らと交渉があり『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源雅定」の詳細全文を読む
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